蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

創価学会が失敗した理由

タイトルにある通りです。創価学会が失敗した理由について少し思うところを書きます。

 

何をもって失敗と判断するか。組織の拡大、公明党の支持獲得、教義の確立、三代会長の思想実現、不幸悲惨の撲滅……まぁどの観点からでも失敗と判断出来るのではないでしょうか。

 

道は長いと。失敗は失敗でも先があるのだと。そう考えたい人は、創価学会第1幕の失敗と捉えてください。

 

創価学会が失敗した理由に関して、このブログでもTwitter上でも既に様々指摘してきました。日本という国土、戦後の混乱と急成長(時代背景)、日蓮正宗という出自、時代的制約、日蓮自身の限界etc……沢山上げることが出来るでしょう。

 

その多くは個々の学会員が個人的に努力してどうにかなる問題では無かったと思います。特に、2世3世の会員はシステムとして出来上がった創価学会を継承せざるを得なかった部分が強く、教義や会の指導を取り敢えずは受け入れる必要がありました。と言うよりは気が付いた時には受け入れていたはずです。

 

戦後の混乱期や高度経済成長期に入会したメンバーに、日蓮正宗の歴史・教義を比較検討するチャンスはほぼ無かったでしょう。仏教史を紐解く……その為の教材が一般に流通していたかどうか。情報伝達の手段はどうか。

 

各会長にしても時代の子ですから、その時代の言葉使いや文化風習から逃れることは出来ません。初代、2代は明治生まれです。3代会長にしたって昭和3年生まれ、軍事工場への就労経験があります。戦前の人です。4代会長に至っては海軍兵学校の出身です。

 

会長含め人の子である学会員が時代や地理的要因、情報の制約に抗えなかったことは1つ仕方が無かったと諦めるとします(要検討の部分もあります)。

 

自分達の努力如何で改善できた部分、避けられたかもしれない失策・失敗。創価学会が内側に抱えていた(今も抱えている)失敗の因は何か。

 

「全ての会員が教師であり生徒であるという観点の欠如」を私は指摘したいです。

  

創価学会は名前にある通り、そして出自が示すように、学会です。学ぶ会です。創価教育学会が母体です。校舎なき総合大学を自称する創価学会です。

 

和気あいあいと校舎なき総合大学を運営出来ていたならば、創価学会は随分違ったものになったでしょう。学会を学会として、学ぶ会として存続させることが出来たと思います。

 

ところが上手くいきませんでした。全ての会員が教師であり生徒であるという観点が欠如していました。

 

校舎なき総合大学を運営するには、プロの学者だけでは絶対数が足りません。個人的に興味を持って知見を獲得している講師、在野研究者と言えるような人物が必要不可欠です。研究者という表現は堅苦しいですね。知的好奇心旺盛な探求者。ようは何かを調べ学ぶ人です。分野は何でもいいです。学問に拘る必要も無いでしょう。

 

で、その在野系人材を有効活用出来ませんでした。

 

受動的な会員は盲目的に肩書を信じる傾向が強く、専門家、ジャーナリスト、教授そして職員という肩書に弱いです。その一方で、身近な場所にいる知的探求心の強い会員(在野系人材)を二乗呼ばわりして批判しがちです。校舎なき総合大学なのだから誰もが何かの教師になり得る……という観点が欠如しています。

 

独自に何らかの分野を研鑽している人物、在野系人材は二乗批判を嫌って会員との接触を避けていきます。意見の中身ではなく、発言権を認めてもらえない。これでは離れます。また、議論が出来ない環境に嫌気がさす人も多いです。職業学者層の二面性に辟易する人もいます。教義教学に関しては、日蓮専門家が会内に少ないので、他分野での職業研究者が在野日蓮・仏教研究者になったりします。で、喧嘩します(笑)

 

職業研究者(分野を問わず)。創価に金の繋がりのない職業研究者は、次第に離れていきます。二乗批判も相変わらず。学会と金の繋がりのある人物は、場所によって主張を変えたりします。人によっては三代会長への評価をシーンごとに使い分け……一対一で話してみると結構な物言いです。具体的な主張という点でも、個人的な性格という観点でも、二面性を持つ傾向があります。そうでないと生活できません。立場に縛られず自由に意見を述べる在野系の方との相性は悪いです。

 

職員。知的好奇心・探求心とは無縁です。学会組織の効率的な運営(集団搾取)以外にはほとんど興味がありません。学説・所見に価値を感じているわけではありません。知的好奇心・探求心が無いにも拘らず、会員を指導する立場だと考えています。在野系の自由論争に対応することは出来ませんし、職業学者の専門知識についていくことも出来ません。

 

本来的には、学問分野に限らず、子育てや人付き合いなんかも総合大学で学べる教科だったのだと思います。全ての会員が教師であり生徒……のはずでした。ところが実際には、四重構造といいますか、4タイプに分裂してしまいました。特に顕著なのが教学・教義分野でしょう。

 

以前紹介しましたように、教義問題においては意図的に一般会員を論争から遠ざけた面があります。様々な思惑があったのだと思いますが、結果的に四重構造を強化してしまいました。

 

ただ教義以外の分野、例えば政治に関しても、四重構造化の弊害にやられた感があります。昨今の公明党支援を巡る会員間の分離分断、もっと手前で健全な議論が出来ていれば、全ての会員が教師であり生徒であるという認識で学びディスカッションが出来ていれば違ったかなと思います。

 

これも何度か指摘しましたが、自由論争は学会分裂の危機を招きます。それは事実なのですが、もっと早い時期での自由論争ならば余裕があったかなと。

 

まぁ教義問題はある一定年度まで仕方なかったとして、他分野においても自由に学び合える組織を構築出来なかったのは、学ぶ会の存在意義を否定する、創価学会の敗北と言えるでしょう。学問分野に限らずです。

 

ひたすら受け身で教えを請う生徒、学んだ内容をやり取りできない在野教師、場所によって講義内容が変わる職業教師、学校経営にしか興味のない職員。

 

全ての会員が教師であり生徒であるという観点で活動できなかったことが学会の分裂を招き、学会を学会たらしめることが出来なかった。創価学会が失敗した理由の1つはそこだと思いますね。