蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

日興の扱いについて(後編)ー宗教法人として

前回に続き、日興の扱いについてです。

 

日蓮世界宗創価学会なる計画。この実態が何なのか、明確に知っているわけではありませんが、もし「宗教法人」としての創価学会を改定する計画であるならば、日興から距離を置く必要性が法律という面から存在するのかもしれません。

 

文化庁が配布している宗教法人運営に関するハンドブックの中で、宗教法人の要件について以下の様に説明しています。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/shukyohojin/kanri/pdf/h22_shukyohojin_unei_guidebook.pdf

 

宗教団体の要件

○ 教義をひろめる

宗教なら、当然、教義があるはずです。また、単にあればいいというのではなく、それを人々にひろめる活動をしていなければなりません。

 

○ 儀式行事を行う

宗教活動の一環として、日頃から儀式行事が行われていなければなりません。

 

○ 信者を教化育成する

教義の宣布によって信者を導くことが行われ、信者名簿等も備わっていなければなりません。

 

○ 礼拝の施設を備える

邸内施設ではなく、公開性を有する礼拝の施設がなければなりません。

 

  

2014年の教義会則変更からもうすぐ3年が経過する訳ですが、宗教団体の要件に含まれている「教義を広める」の項目は、創価学会にとって困った存在であったのかもしれません。

 

1991年に勃発した宗門との紛争以降、創価学会は徐々に「大御本尊」から距離を取ってきました。もっとも、登山停止状態だったので、物理的にも距離を置かざる得ない状況でした。

 

大御本尊から距離を取った理由は様々あったわけですが、創価学会の教義会則に大御本尊が入っていた以上、宗教法人としての創価学会は「教義を広める」つまり大御本尊を広める必要性があったと言えます。

 

2014年の教義会則変更により、宗教法人としての創価学会は大御本尊を広める必要は無くなったわけですが、教義会則の中には「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」という文言が残っており、「日蓮大聖人を末法の御本仏」と広める必要性は残っています。

 

日蓮大聖人を末法の御本仏」とする解釈は、日蓮系でもかなり限定された、日興門流の一部に限定された解釈です。創価学会日蓮正宗時代の名残を消すことに必死ですが、「末法の御本仏」という解釈は、宗門との紛争以降も外してこなかった(準備してこなかった)ので、恐らくしばらくは用いるつもりなのでしょう。

 

前回記事でも指摘しましたが、創価学会の生まれ育ちを大石寺と切り離すことは出来ません。その為、1991年以前は、大筋において大石寺の教義を用いてきました(実際は複雑ですが)。

 

宗教法人としてもそれで問題は起きませんでした。大石寺に存在する大御本尊を形式的には広めていたので(実態は違うと私は考えています)、宗教法人としての創価学会は「教義としての大御本尊」を広め、法人格の要件を満たしていました。

 

創価学会が名実ともに大石寺から独立した今、他教団の教義や他教団所有の本尊を広める必要性はありません。むしろ、自分達の正当性&正統性を傷つける自殺行為です。更に、「宗教法人」としての要件にも傷をつけかねません。

 

「教義は教団運営上の都合によって左右されては云々、大御本尊が根本なのだから云々」とがなりたてる人も居るでしょうが、そこに真偽問題が絡んでくるわけです。

 

大御本尊が教義の根幹にあって、日蓮から外せないものと本当に確信出来るならば、創価学会も大御本尊から離れなかったでしょう。

 

教団運営上、他宗所有の大御本尊が都合悪い存在になったとしても、争ったときに負けてしまう教義を採用しては、それこそ運営上の大障害になってしまいます。

 

創価学会は、大御本尊を外しても大丈夫そうだと、自語相違以外に責められる点はなさそうだと、結論に達したわけです(宗門所属時代から下準備はあったわけですが)。その結論は、宗教法人としての創価学会にも都合が良いと。

 

話を日興に戻します。日興が教義に直結していると、創価学会宗教法人の要件を満たすため、日興を広める必要性が生じてしまいます。

 

創価学会は仏教団体として根本的に敬うべき三宝(仏法僧)を、

 

仏宝 日蓮大聖人

法宝 南無妙法蓮華経の御本尊

僧宝 日興上人

 

としています。僧宝、敬うべき僧侶は日興であると宣言している状態です。大石寺の開祖、開山の僧侶を僧宝にしている。これは独立教団として非常に都合が悪い。生まれ育ちから仕方がないとはいえ、宗教法人の要件を満たすために縁を切りたくてたまらない大石寺を宣伝するような真似はしたくない。

 

で、僧宝の解釈に関して、創価学会は以下の様に言葉を足しています。

http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/sekaikoufutosoukagakkai/bukkyounoninngennshuginokeifu/09-2/

「現代日本では、男性の出家者のみを僧と呼びますが、「僧」は、僧伽の略で、〝集い〟を意味する古代インドの言葉「サンガ」に漢字を当てたものです。意味をとって「和合」と訳され、二つ合わせて「和合僧」とも言います。」「尊崇の対象となる三宝を正しく護持して伝え広める人々の集いも、広い意味での僧宝です。今日では、日蓮大聖人の御心と御振る舞いを継承し、世界広宣流布を推進している創価学会が、僧宝に当たります。」

 

創価学会三宝の解釈に、僧宝=創価学会が誕生したのがいつ頃なのか、私は把握していませんが、宗門との紛争以降(あるいは独立を見越してそれ以前から)日興を三宝から外す準備を進めてきたのではないか?なんて思っています。

 

余談ですが、日興のみが僧宝ではなく、在家信徒も僧宝に含まれるという解釈を日寛およびその他歴代法主の言葉から導き出すのは非常に馬鹿げた行為です。

 

宗教法人の要件を満たすため、僧宝=創価学会、日興だけではなく在家信徒も僧宝に含まれるという解釈を、日寛およびその他歴代法主と一緒に広めることになります。早速独立教団ではありません。

 

これまた余談ですが、宗門と一緒にいた頃は、法宝=南無妙法蓮華経の大御本尊だった可能性もありますね(宗門時代の創価学会三宝観がわりません)。

 

三宝の中に日興が入っていれば、どう解釈をつけようと、宗教法人の要件を満たすため、日興を「僧宝」として広める必要性があります。

 

もし本当に、僧宝は日興のみであると確信出来るならば、創価学会は日興から離れないでしょう。大御本尊と同じで、争ったときに負けてしまう教義を採用することはありません。ここにも、真偽の問題が絡んできます。

 

信濃町は日興の扱いを低くすることに何の抵抗もないでしょうが、団塊世代以上を中心に、日興なくして日蓮なしと捉えている人は多いだろうと私は考えています。ある意味で、大御本尊を外す以上にハードルが高いと思います。

 

様々違和感を覚えながらも大筋において信濃町に従ってきた会員は、日興の扱いを変化させても創価学会についていくのだろうか?

 

一定数の人が見切りをつける、組織からの離反者が増加するのではないかと私は推測しています。無論、気にせず追従し続ける人も多数いるでしょう(信濃町の望む模範的な会員ですね)。

 

今年の11.18に何をするつもりなのか。日蓮世界宗創価学会がどういう代物なのか。正確な予測は出来ませんが、いずれ日興の扱いを下げる蓋然性は高く、それに反発して一定会員の離反も予期されます(どうも信濃町は会員の反発を低めに見積もっている気がしますね)。

 

宗教法人日蓮世界宗創価学会」は誕生するのか?日興は消えるのか?いずれにせよ、日興の扱いを間違えれば、信濃町は想定外のトラブルを抱え込むことになるでしょう。