蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

日興の扱いについて(前編)

5回にわたってストレートな政治ネタを記事にしました。本当はもう少し続けようかと思ったのですが、飽きました。そして疲れました。

 

だからという訳ではありませんが、今回は教義に関する話です。私が個人的に気にかけていること、創価学会における日興の扱いについて綴ります。

 

Twitterでも少し呟きましたが、創価学会の指導から日興が消える日が来るかもしれません。消えるというのは大げさな表現ですが、消えないまでも、今より扱いが低くなる蓋然性は高いと見ています。

 

創価学会はこれまで、日興を日蓮とセットで宣揚してきましたが、それは創価学会大石寺に縁のある団体として機能してきたことに由来します。

 

生まれ育ちが大石寺に由来している創価学会は、自分達の正統性&正当性を主張する上で大石寺の正統性&正当性も主張する必要性がありました(日蓮正宗所属の在家団体でしたから)。

 

創価学会はこれまで、大石寺流の解釈を採用する形で、日蓮直弟子の6老僧を日興vsその他の構図、五一相対として捉えてきました。日蓮仏法の正統継承者は日興ただ一人であり、日興につながらないことには日蓮に連なることが出来ないという理論を採用してきました。

 

日興は創価学会にとって、自団体の正統性&正当性を補填する人物でした(一応、今もです)。

 

日興が日蓮法華経講義を筆録したとされる「御義口伝」。日蓮宗(身延)からは殆どまともに相手にされない文章を、創価学会は重書として遇してきました。恐らくですが、これまで学会が引用した「御書」のなかでも「御義口伝」は最多クラスではないでしょうか。

 

以下、幾つか示します。

 

「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり」

この部分は師弟を強調する目的もあって、第二次宗創問題の勃発後も良く用いられた印象です。

 

「経とは 一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと」「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり」

二か所セットで主に「敵」を責めることの正当性を強調する指導に組み込まれてきたと思います。

 

「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」

モーレツ学会員、火の玉活動家を育成する言葉としてよく使われてきました。

 

「我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経歓喜の中の大歓喜なり」

勢い任せな指導をする人から良く聞いた記憶が。南無妙法蓮華経はとにかく凄いんだ!みたいな。

 

日蓮→日興と血脈が相承されたという部分は、日興から下の展開と血脈の解釈は別にして、創価学会(と大石寺&その他日興門流)も是としてきました。表向きは今もそうです。

 

宗門とのバトルが開始された後、富士の清流伝説、明治以降の大石寺周辺の混乱、相承詐称・相承未達の法主等、大石寺周辺の歴史を指摘(指弾)する場合においても、日興にメスが入ることはありませんでした。

 

むしろ、大石寺の開祖である日興の言葉を盛んに用いて、当時の法主日顕(と法華講員)を責め立てました。「日興遺誡置文(遺誡置文二十六箇条)」はその代表格でしょう。

 

散々日興を持ち上げてきた手前、日興への解釈変更は、自語相違として批判される危険性を持っていました(今もです)。宗門との紛争においても、日蓮→日興の流れは前提条件として両団体の間に存在しました。

 

Twitterでは既に何度か言及しましたが、日興が残したとされる「御義口伝」には日興真蹟が存在せず、最古の写本も日興年代から随分離れた時期のものしか残っていません。日興遺誡置文に関しても同様です。

 

創価学会大石寺と縁を切って久しい今、創価学会は日興の正統性&正当性に嘗てほど拘る必要がありません。むしろ拘るのは組織の存在条件を危うくします。その上、真偽問題が信徒の間にも広がり、日興唯一人を日蓮の後継者と認定するための根拠が揺らいで久しい状態です。

 

私個人としては、日興の文章なりその他真偽未決の文章なりを「日蓮仏法」の歴史的遺産として、著者や真偽に関係なく用いるのならば、それはそれで一つの方法だと思います。

 

何度も言いましたが、歴史上の釈尊が発言したと断言できる言葉はありません。そこから後ろの人達も似たり寄ったりです。天台智顗にしろ、弟子の章安との合作なのか、章安の創作なのか研究が進んでいる状態です。

 

先師の言葉を「先行研究」と位置付けて、取捨選択、比較検討、新説提示を繰り返してきたのが宗教の歴史と言えます。

 

日興にも価値があると思うのならば、何故用いるのか、用いる際の基準と根拠を示せば、日興なり日興が残したとされる文章なりを使用しても構わないと思います。相承書の有無や自団体の出自を気にする必要は無いです。

 

ただ、これまでの日興への評価に、大石寺生まれの自団体を権威付ける目的が含まれていただけに、大石寺を「全く無関係の存在」と創価学会のオフィシャルが宣言する昨今、創価学会において日興の扱いが低下する蓋然性は高いのでは?と考えています。

 

後半ではちょっと違う観点で話します。