蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

公明党を振り返る(後編)

前回に引き続き公明党を簡単に振り返ります。

 

1970年から現在に至るまで、公明党は国政選挙において当選議員数という意味では勝ったり負けたりを繰り返します(最近は落ち着いた状態です)。Twitterでご指摘を頂きましたが、公明党議席数の増減に関しては選挙制度に依存する部分が多そうです。

 

しかしながら、得票率という点ではこの頃からたいした進展はありません。

 

2016年に行われた第24回参議院議員選挙における公明党の比例得票率は13.5%。

 

公明党衆議院で最多議席を記録したのが1983年(58議席)。この時の得票率が10.1%。改選、非改選合計で、参議院で最多議員数を記録したのが同じく1983年(27議席)。この時の得票率(比例)が15.7%(おそらく歴代最多得票率)。

 

1962年の参議院選挙、全国区で412万票の11.5%。1968年の参議院選挙、全国区で665万票の15.4%。1969年の衆議院選挙、512万票で10.9%。

 

公明党の得票率は15%前後で頭打ちです。得票率に関しても選挙制度に依存する部分があるかもしれませんが、公明票は投票数の15%程度が限界値です。

 

公明党の凄いところは「頭打ち」がひたすら続いていることです。単一の支持団体によってのみ支えられている政党の得票率が「頭打ち」を続けられるというのは驚異と言ってよいでしょう。

 

1970年までの公明党は、破竹の勢いで拡大する創価学会に支えられ選挙戦に勝利し続けました。強烈な信徒集団に支えられたフットワークの軽い新興勢力。しがらみが少ないという新興勢力最大の利点を生かしながら急速に勢力を拡大していきました。

 

他政党をほぼフリーハンドで批判出来、支持本体母体(創価学会)は絶頂期。負ける要素がありません。公明党は日本国内において確固たる地歩を固めます。

 

1970年に発生した言論問題とは、公明党(創価学会)が名実共に日本の有力団体として認識される過程で払った通行税の様な物だったと思います。

 

言論問題は創価学会の出版妨害行動として注目されてしまいますが、言論問題が起こらずとも、いずれどこかで何らかの形で創価学会は日本社会からの「洗礼」をうけたことでしょう。

  

言論問題で幕を上げた1970年代。公明党は、支持母体である創価学会の試行錯誤に連動しながら(場合によっては振り回されながら)、1970年代を過ごします。

 

1970年代前半、創価学会員の増加ペースは鈍り、言論問題により世間の注目を悪い意味で集め、創価学会は次の一手をどうするべきか試行錯誤を重ねていきます。いわゆる昭和52年路線(1977年)もその一環です。公明党に関係するところでは1975年の創共協定締結が一大施策でした(あまり機能しませんでしたが)。

 

創価学会側の試行錯誤に干渉されるのが嫌だったのか、この時期、創価学会公明党の関係が複雑になることもありました。

 

池田会長と公明党の不一致(1975年、竹入公明党委員長の池田会長批判) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長は公明党の方向性に不満を抱いていた(1975年、創共協定に関連する外交公電より) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

時代の変化に対応し組織の行き詰まりを打破するため試行錯誤を重ねた創価学会でしたが、成果の乏しい結末を迎えることになります。組織改革、新たな挑戦に失敗したと言って良いでしょう。少なくとも、長期的な道筋をつけることには失敗してしまいました(池田会長(当時)が明確なストラテジーをどの程度描いていたのかは不明です)。

 

会員数の増加にブレーキがかかり、それに対応すべく、折伏大行進時代からの脱却、新しい創価学会の確立を目指した試行錯誤は池田会長の辞任という形で終焉を迎えました(昭和54年、1979年)。

 

公明党の支持母体である創価学会はグランドストラテジーの確立に失敗しましたが、公明党もまた、将来飛躍するための大戦略の確立に失敗しました。その結果、学会員の支持に支えられて一定の勢力を保ち続けますが、新規支持層の拡大には失敗しました。

 

創価学会折伏のピークが大体1970年前後、正本堂の完成(1972年)までと言われています。創価学会員以外からの幅広い支持を取り付けることに失敗した公明党は、この時既に上限に達していたのかもしれません。

 

公明党が1970年代から現在に至るまで、革新勢力と保守勢力の間で位置取りに苦労することになった理由は、有効な長期戦略(支持を広げる為の看板となる政策の選定・実行)を立案出来なかったからです。

 

最初に得票率の部分で少し触れましたが、公明党の最多議席獲得は、衆参両院とも1983年。その後議席数が伸びることはありませんでした。選挙制度や議員定数の変化による影響もありますが、得票率の増加を達成できなかったのは事実です。公明党創価学会の成功と共に発展し、創価学会の失敗と共に停滞したという評価に尽きるでしょう。

 

1980年以降の公明党の政局関与に関して、例えば、55年体制下での他政党との連携・衝突(自公民の連携、1983年)、竹下内閣と消費税の導入、細川政権成立(1993年)からの自社さ連立(1994年)、新進党時代(1994‐1997年)。四月会との闘争(1994-2001年……自公政権が1999年始動なので実質は1999年まで)。この辺を言及、考察しても良いのですが今回は扱いません。理由は二つあります。

 

一つは、単純に私が知識不足だからです。公明党が国政政党の重要ポジションを確保し、他党との駆け引きが本格的に始まった後の動向について言及するには、他政党の内情・動向についても知っている必要があります。今の私には無理です。おそらく、冷戦後期から1990年代にかけての日本政治を振り返ることになるでしょう(簡単にできることでは無いです……)

 

もう一つの理由は、細かい政局の変化、他党との駆け引きを調べてもあまり有意義ではないと考えているからです。他党との駆け引きは様々あったと思いますが、公明党の本質、公明党が抱えているシチュエーションというのは1980年以降、基本的に変化していないと考えています(政策は変化しています)。

 

他党との駆け引きはあくまで、公明党創価学会という単一の支持団体(の構成員)によって支えられているという前提条件によって誘発された表面上の変化に過ぎない。私はそう考えています。

 

公明党の政局関与は、自民党への接近と15年間の与党生活に落ち着くわけですが、公明党がその勢力をほぼ創価学会員の支援によってのみ維持しているという状況があったからこその結末と考えています。

 

公明党創価学会員以外からも幅広い支持を取り付けていれば、あるいは創価学会が末広がりで発展し続ければ、自公政権というエンディングを迎えることもなかったと思います。

 

1980年以降の公明党の際立った変化は、政権運営者になる為の第二条件をクリア、即ちアメリカ政府からの承認を得たことです。このブログでも何度か取り上げていますが、公明党は1970年代以降、定期的にアメリカ大使館とコンタクトを取り、国政政党としての経験を積んでいきます。

  

アメリカからの承認を得る上で最大の難所となったのが、日米安全保障条約在日米軍基地、自衛隊。当初公明党は、日米安全保障条約の段階的撤廃、米軍への基地供与反対、自衛隊違憲の立場でした。これはアメリカの極東政策とまるで反対で、アメリカ政府から承認されることのない主張です。

 

公文書から確認できたのは、1977年前後からの政策方針変更。1977年の時点でアメリカ側に日米安全保障条約への賛同を非公式に通達していましたが、党としての公式見解が変更されたのは1981年。安全保障政策における方針転換は結果的に自民党との距離も縮めます。

 

1977年の二枚舌(公明党安全保障政策の変遷-前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長の一存に非ず(公明党安全保障政策の変遷-後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

不明瞭な意思決定機構(公明党の安全保障政策の変遷-番外編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

公明党の安全保障政策の変更が如何なる動機だったのか(自民党への接近、政権関与を目的にしただけかもしれません)、公明党サイドが望んだのか、池田会長が望んだのか、それは分かりません。

 

確かなことは、公明党の安全保障政策の変更は創価学会が試行錯誤を重ねている時期に開始されたことと、1981年に日米安全保障条約の継続と自衛隊の存続が党として決裁されたことです。

 

 

省いた部分も随分ありますが、前編と合わせて公明党の歴史を振り返ってみました。

以下、振り返った上での私個人の感想を綴ります。

 

公明党は本質的に1980年から進歩していない。政策は変化したけれども、全ては創価学会員以外からの支持獲得に失敗したのが原因。根本的な問題は長期的なグランドストラテジーの欠落にあり、それは支持母体である創価学会にも言える。

 

政策変更があったにもかかわらず学会員が公明党支援を辞めなかった理由は、公明党支援が信仰の範疇に、つまり合理的・理性的判断だけでは機能しない場所に含まれていたから。現在も同じ。

 

創価学会員の強烈な選挙活動に依存して勢力を維持し、安全保障政策をアメリカ寄りにシフトすることでアメリカ政府の承認を得る。1980年からこの状況に変化は無く、政権運営者になる為の条件をクリアし続けている。

 

創価学会の体力が大幅に低下したにも拘らず、公明党が一定勢力を保っている理由は、創価学会以外の団体が創価学会以上に衰えたから。支持者を世襲出来るのが公明党の強み。また、自社さ連立政権発足以降の投票率の低下に助けられている面もある。対立団体の衰退と投票率の低下が、極端な選挙活動を行う学会員の相対的な影響力を強めている。

 

ただ、創価学会の体力低下は著しく、長期的な大戦略も打ち立てられないのが現状。いずれタイミングを見計らって(創価学会にとって都合の良いタイミングで)、国政選挙から(衆議院、あるいは選挙区から)撤退するつもりでいるのではと推測する。