蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

不明瞭な意思決定機構(公明党の安全保障政策の変遷-番外編)

前回・前々回と、公明党の安全保障政策の変遷についてアメリカ外交公電を基に考察しました。公電の記述内容を“真”と前提した上で、文章に記載されている事柄を淡々と追いかけたつもりです。今回は、憶測を交え、幾つかの穿った見方(仮説)を示したいと思います。

 

前回・前々回の記事で紹介しましたが、公電から確認出来た内容は以下の通りです。

 

公明党の安全保障政策転換のキーマンは矢野書記長

アメリカ側は池田会長が矢野使節団の訪米を推進していると考えていた

矢野使節団に影響されて公明党指導層は政策方針変更に前向きになった

公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した

党の政策方針変更には失敗したが、竹入委員長のスピーチで言及した

 

上記5つの内容を(少し斜めに)検証していきます。

 

については疑う必要が無いかと思います。実際、公明党の訪米使節団の長は矢野書記長(当時)でした。公的な立場でのキーマンは、矢野書記長です。②に繋がりますが、その後ろに池田会長(当時)が控えていたかどうか。それによって物語は大きく変化します。

 

は検討の余地ありでしょうか。外交公電では、

 

He is strong candidate to succeed chairman TAKEIRI, and is said to be close to DAISAKU IKEDA, president of CGP's principal support organization, SOKA GAKKAI, and who is believed to have hand in promoting YANO mission

 

と、あくまでも“信じられている”という表記です。もしかしたら、公明党側の独断という可能性もあります。

 

矢野書記長、竹入委員長のコンビ時代ですので、池田名誉会長を全肯定する方は「矢野・竹入が師の平和思想を裏切り独断で決めた」と分かり易いシナリオを想定するかもしれませんが、それは短絡的かと思います。

 

党の安全保障政策が公的に変更されたのが1981年と、池田会長が会長を辞任した後であり、宗創問題の混乱期を跨いだのは事実です。しかしながら、党が方針変更を決定したのは遅くとも1977年。池田会長時代です。

 

「矢野・竹入の独断」であった場合、池田会長は公明党の重要政策、それも平和主義に直結するような政策の変更にまったくの無関心、無抵抗、無力であったということになります(池田名誉会長を全肯定する方には、それはそれで受け入れ難いでしょう)。

 

 

池田会長が訪米使節団を支援しつつも、あえて自分の名前を前面に出さなかった可能性もあります。この辺は、矢野元委員長か池田名誉会長のどちらかにに聞いてみないと分からないでしょう。

  

 

に関して、公明党の説明(矢野使節団が安全保障政策方針変更のターニングポイントになったというアメリカ大使館に対する説明)は若干脚色されていると私は考えています。

 

公明党の一部指導層は、安全保障政策の変更をある程度決心していたが、竹入委員長を説得するため、あるいは政策変更にもっともらしい理由を与える為に矢野訪米使節団を派遣した。というのが私の推測です。以下、いくつか根拠を示します。

 

前々回紹介した公電の中に公明党側の発言として以下の内容が記録されています。

 

CGP MISSION TO US                      

(公明党訪米使節団-1977年3月4日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=46620&dt=2532&dl=1629

 

Watanabe is counting heavily on mission to help educate YANO on importance of US-Japan relations and enhance his understanding of mutual problems.

(渡辺は、使節団が日米関係の重要性を矢野に教育する手助けになること、彼の日米共通の問題に対する理解を強めることを強く期待している)

 

文面を素直に読み取ると、渡辺議員は “矢野書記長が日米関係の重要性を理解すること”を期待していたと推測できます。渡辺議員は“矢野書記長が安全保障政策を転換してくれること”を期待していたと読めないこともありません。

 

因みにですが、アメリカ側も矢野書記長の訪問を、公明党を転向させるチャンスであると認識していました。

 

CLEAN GOVERNMENT PARTY VISIT TO U.S.

(公明党アメリカ訪問-1977年10月26日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=250191&dt=2532&dl=1629

 

Visit of CGP SECGEN YANO to U.S. in early November offers important opportunity to encourage CGP shift toward constructive policies, especially on US-Japan security treaty.

(11月初旬に予定されている矢野公明党書記長の訪米は、公明党を建設的な政策へ、特に日米安全保障条約に関して、シフトさせる重要な機会を提供する)

 

また、前々回記事にあるように、公明党は当時の公約である「日米安全保障条約の段階的撤廃」の実行意思が無いことを、矢野書記長訪米よりも前の段階でアメリカ側に伝えていました。

 

CGP officials have privately assured us they desire no immediate change in current arrangement, while in public, party currently advocates replacement of MST by "treaty of friendship and non-aggression," but only after obtaining U.S. agreement through negotiations.

(公明党当局は、公的には、アメリカとの交渉を通して同意を得た後でのみ日米安全保障条約を友好条約と不可侵条約に置き換えると現在主張する一方で、現行協定の即時変更を望んでいないと (アメリカ側に) 非公式に断言している)

  

上記記述より、矢野書記長訪米以前より政策変更が既定路線だったという仮説には、それなりに筋が通ると思います。問題は誰が発案者であったかです。

 

安全保障政策の変遷に関連する公電には、矢野書記長の名前が頻繁に記録されている一方で、竹入委員長の名前は余り出てきません。また、アメリカ側の判断として「竹入委員長の方向転換は矢野書記長に影響されたから」とのコメントが記録されています。

 

よって、竹入委員長は安全保障政策変更の発起人ではないと推測できます。矢野書記長か他の幹部です。 

 

政策変更に前向きだった幹部(例えば渡辺議員)が、政策変更に割と前向きな矢野書記長を訪米させて、竹入委員長を説得させた。という仮説が一つ考えられます。

 

しかしながら、公明党の一部議員が党最高幹部 (矢野書記長、竹入委員長) の頭越しに勝手に政策を変更できるとは考え辛く、この場合、渡辺議員には公明党の幹部と同等に公明党に干渉できる力、つまり池田会長の権威・支持が存在したと考えるのが妥当です。

 

渡辺議員、矢野書記長、竹入委員長と公明党上位指導層は分裂気味だった。池田会長とその側近(渡辺議員)は元々安全保障政策の転向に前向きだったが、党代表の竹入委員長をコントロールできないでいた。そこで竹入委員長に比べればコントロールしやすい矢野書記長を使って竹入委員長を説得させた。という仮説です。

 

しかしこの仮説を採用すると、の「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」という公明党の説明がかなり複雑な状況を示唆するようになります。

 

池田会長が、公明党中央執行委員会の議員の大半に影響力を行使出来なかった、あるいは行使しなかったことになります。更には、池田会長が二枚舌の調本人であり、それを公明党議員(非上位指導層)が拒否した(しかも選挙リスクから)ことになります。

 

公明党上位指導層の一部が結託して(例えば矢野書記長-渡辺ラインの形成の様な)勝手に決めたという仮説も成り立ちます。

 

池田会長と無関係に、分裂気味だった公明党上位指導層の一部が専制的に安全保障世策の変更を決め、訪米使節団をプロジェクトし、最終的には竹入委員長を説得した。という仮説です。

 

この場合はの「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」というのは明瞭に説明できます。一部議員の独断専行が否決されたと。

 

果たしてこの時期の池田会長が公明党に対して全くの無力、非干渉だったのか。他の外交公電から推察すると、個人的には疑問です。

 

 

の「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」というのが嘘である場合は、アメリカ大使館側への説明は、公明党の政策変更を猶予するための策略だったということになります。の竹入委員長のスピーチも様子見の為の一手であり、アメリカ大使館を納得させる為の演技に過ぎないことになります。

 

もっとも、全てが池田会長あるいは公明党指導層の策で、アメリカ側にラディカルな平和政策を実行する意思がないことを伝え安全保障政策の変更を示唆しつつ、訪米団を用いて公明党が交渉できる政党、建設的な団体であると認識させた。その上で国内政局を鑑み、政策変更を実行する機会を伺い、1978年の時点では党としての公約変更は回避。その言い訳として「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」という嘘をついた。というかなり穿った見方も出来ます。

 

この場合、池田会長あるいは公明党指導層は公明党支持者および米国政府を悪辣に裏切ったことになりますが、この仮説を裏付けるような証拠は特に見つけておりません。殆ど妄想の域です。

 

付け加えて言うならば、その様な嘘を突き通せるほどアメリカという国がちょろいとは思えません。外交公電においてもアメリカ側が公明党の説明に不信感を示しているような記載はありません。

 

 

以上、公明党の安全保障政策の変遷について幾つかの仮説を示しました。仮説を組み立てる中で実感したのは、不明瞭な意思決定機構、公明党の政策決定機構の不健全さです。

 

矢野書記長なのか、その他議員なのか、池田会長なのか。今後、他の公電や公文書が公開される過程で判明することもあると思いますが、現代段階で言えることは、公明党の意思決定機構は非常に不明瞭であったということです。

 

 

補足

 

 

池田会長を最大限肯定的に評価しながら仮説を組み立てれば以下の通り。

 

池田会長は公明党を自立させていた。安全保障政策に関しても信頼して一任していた。そんな中、矢野・竹入のコンビが平和主義捨て、選挙の為に裏切った。党中央執行委員会の反対で1978年の公約変更は成らなかったが、会長辞任の後、矢野・竹入主導で安全保障政策は変更されてしまった。

 

池田会長を最大限否定的に評価しながら仮説を組み立てれば以下の通り。

 

池田会長は公明党に強く干渉し事実上の独裁者だった。平和主義は全て見せかけで、日米安全保障条約の撤廃の様な政策は、はなから達成する気が無かった。矢野書記長を使って演技を打ち、アメリカに公明党の価値を認識させたが、党中央執行委員会の反対という言い訳を用いて公約変更の猶予を作った。

 

恐らく上記どちらでもないでしょう。

 

矢野氏は書籍の中で「池田会長(名誉会長)が直接公明党の政策に口を出してくるようなことは無かったが、池田会長の意を汲んだ学会幹部が指示をしてくることはあった。また、議員側が過剰に忖度することもあった」と述べています。

 

矢野氏の記述が本当の事なのか確かめる術はありませんが、これまで読んだ複数の公文書を考慮すると、1970年当時、池田会長-創価学会公明党は指揮系統が随分と複雑かつ曖昧だったのは事実だろうと私は考えています。

 

池田会長は、公明党に非干渉であったのではなく、影響力をダイレクトに行使しなかった。あるいは出来なかった。命じることは無かったが、意図を伝えることはあった。池田会長-創価学会公明党は一本の線でつながらず、各々に国際問題と国内政治情勢の間で、試行錯誤の連続だった。

 

恐らく客観的にはこのレベルかと思います。

 

当事者が口を割らない以上、真相は不明なままでしょうが、公文書にあからさまな嘘を記載するとは考え辛いので(いずれ公表される文章に嘘はつき辛い……これがアメリカの強さにつながる)、公明党の意図はともかく、公明党がアメリカ側にした説明はそのまま事実と判断して良いのではないでしょうか。

 

公的には(つまり支持者である創価学会員には)、在日米軍基地の撤廃や日米安全保障政策の段階的廃止を訴える一方で、非公式の場では(支持者である創価学会員の知らない場所では)、日米安全保障条約の維持が本音であるとアメリカ大使館側に伝えていたこと。

 

公明党の上位指導層と中央執行委員会のメンバーが、安全保障政策に関してコンセンサスを形成出来ていなかったこと。

 

池田会長の影響力の有無とは別次元の問題として、公明党の二枚舌、偽一枚岩の部分は記憶しておくべきでしょう。