読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

大御本尊と日蓮本仏論の文献学的な考察に触れない場合

日蓮正宗創価学会の教義変遷に関して、大御本尊と日蓮本仏論の文献学的な推察に触れることなく評価するとどうなのか。少し書いてみます。何らかの参考になりましたら幸いです。(ある方のブログに投稿した私のコメントを基に記事にしています)

 

 

前提条件ですので、大御本尊の真贋論争および日蓮本仏論の文献学的な推察に触れません。日蓮末法の御本仏、出世の本懐=大御本尊は日蓮仏法の化法であり、日興以来日蓮正宗はその化法にのっとり活動してきたと仮定します。その上で話を進めます。

 

日蓮=大御本尊である…1

各人が拝する曼荼羅本尊は大御本尊の分身散体である…2

よって、曼荼羅本尊=人法一箇の本尊…3

 

上記1-3の教義が一般的に運用され始めたのは、比較的近年、戸田城聖入信以降だと思われます。情報の出典が創価大学の宮田教授のHPからなので、人によっては価値の無い情報かもしれませんが(あるいはとっくにご存知かもしれません。その場合はすみません)、日蓮正宗においては、文字曼荼羅=法本尊、日蓮御影=人本尊としてきた歴史があるそうです。

 

この、文字曼荼羅=法本尊、日蓮御影=人本尊、という発想は、日蓮が御影本尊を信仰の対象として奨励していない以上(そういう遺文を私は知りません)、本尊義(化法)をその後の法主が勝手に変えたことを意味していると思います。

 

創価学会では、戸田城聖以降、上記1-3の教義が一般的になりましたが、日興以来日蓮正宗が実践、主張してきた日蓮仏法の化法とは言えません(文字曼荼羅=法本尊、日蓮御影=人本尊という歴史を経ていますので)。

 

日蓮末法の御本仏、出世の本懐=大御本尊、日蓮=大御本尊、曼荼羅本尊=大御本尊の分身散体、曼荼羅本尊=人法一箇の本尊」を日蓮仏法の化法であると条件設定すると、今の創価学会の教義(2014年以降)は日蓮仏法ではありません。真贋に関係なく、大御本尊を受持の対象としない時点で、化法に手を付けています。

 

ですが前述したように、日蓮正宗は、日蓮末法の御本仏、出世の本懐=大御本尊を採用していたと彼らが主張する時代においても、本尊義に手を付けています。創価学会誕生以前から日蓮正宗は化法とされる部分に変更を加えています。

 

また、創価学会日蓮正宗の伝統教義を踏襲したわけではありません。戸田城聖は、それまでの本尊体系(大御本尊、文字曼荼羅日蓮御影)を「大御本尊‐文字曼荼羅」に集約したわけですから、かなり化法に近い部分を変更していると思います。加えて、牧口常三郎は、日蓮御影を保有していたそうです。化法の部分において、牧口≠戸田だったと言えるかもしれません。

 

以上のように、大御本尊と日蓮本仏論の文献学的な考察に触れなくとも、日蓮末法の御本仏、出世の本懐=大御本尊は日蓮仏法の化法であり、日興以来日蓮正宗はその化法にのっとり活動してきた(そしてそれを創価学会が受け継いだ)という主張は、成り立たないのではないでしょうか。

 

補足

以前にも少し書きましたが、私は、研究者ではなく信仰者でいるというのならば、つまり日蓮なり法華経なりに何らかの信仰上の価値を見出し、それを判断したいというのならば、文献学の成果だけに拘束される必要はないと思っています(私自身は、文献学的な成果をそれなりに尊重する気質です)。ですが、自説の正当性を主張するために歴史を捏造し、遺文の真偽を避けるような態度は厳に慎まなければなりません。そのような態度を認める日蓮ならば、日蓮に価値はありません。