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蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

信仰の試行錯誤

私は現在、自分の信仰、信仰を持つ必要性、心の在り方など、様々思索、試行錯誤の途中です。今考えていることをざっくり書きます。

 

 

私は、信仰者が真偽問題を無視するのは危険であると思いつつも、信仰を歴史的な事実のみで構成し、普遍化する必要性はないと考えています。信仰という、個人における価値基準を、普遍化することは不可能です(究極的に言って、信仰に限らず、価値基準を普遍化することは難しい)。科学や学問を駆使して一般化させる作業が有益であるとは限りません。

 

以前、教学全般についての記事

hasu-no-rakuin.hatenablog.com

で少し触れましたが、古い宗教団体に歴史的な真偽問題はつきものです。仏教に限った話ではありません。キリスト教最古の聖典は、イエス没後数十年程度経過して記述されたといわれています。イエスが直接書き残した言葉はありません。コーランはどうかというと、コーランの研究、真偽の検証を行うこと自体が非常にデリケートな行為です。

 

信仰を学術ベースで云々するという態度は、世界のどこでも通用するわけではありません。真偽問題、遺文解釈に熱を上げる人は、「無私の研究者」を意図的に目指していない限り、無意識のうちに近代科学思想にかぶれていることを自覚すべきです。宗祖と呼ばれる人物が、生き死にという人類すべての共通問題を扱っていたならば、物証を基にした学術研究が人類すべての共通解でないことを把握するべきです。

 

一方で、歴史的な真偽をぼかすことで、自宗の権威を保ち、人を隷属させるような悪質な宗教もあります。伝説的な遺品(聖骸布とかもその類かね)が、人々を惑わすこともあります。そういった“負”の部分を排除するために、宗祖と呼ばれる人物の志が引き継がれることこそ大事なのではないでしょうか。宗祖と呼ばれる人物の志が気に食わない場合は、離れるか、新しいものを自分で作ればよいのです。

 

宗祖の志や意図がどこにあったかを検証するためには、厳格な史実ベースの研究が必要不可欠だと私は考えています。史実の宗祖が何を考え、何をしたかったのか。この部分を見誤った瞬間から、宗教は分裂と紛争を繰り返し、安定後は堕落します。

 

難しいのは、多くの宗教が、先行宗教の発展の上に成り立っているという事実です。一つの宗教を検証する行為が、他宗教の検証をも必要とします。そして、古い年代の宗教には、いつ、誰が編纂したか不明な経典が沢山あります。始まりを求めても終わりは見つかりません。必ずどこかで推測が混じります。

 

日蓮に関して言えば、日蓮自身が法華経(天台智顗の法華経解釈‐智顗の文章のいくつかは弟子章安のオリジナルとも言われる)の再解釈、日蓮正宗日蓮宗日蓮の再解釈と評価することもできます。解釈に解釈を重ねた存在です。法華経含めあらゆる宗教が、先行宗教の再解釈と言えるかもしれません。

 

自然科学などの学術分野も同じで、先行研究の上に新発見を重ね発展してきました。全てがオリジナルなどあり得ません。全くの無から何かを作り出した人物はいないのです。誰が言った(書いた)以上に、何の為に言った(書いた)か。言った(書いた)ことは、今役に立ちそうか、宗祖の志に合致しているか。この部分が大事だろうなと、今は考えています。