蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

創価学会の教義会則変更(2014年)について(2)

 

創価学会の教義会則変更について考えていることの続きです。浅学な文章ですが、気になったことを素直に書いていきます。

 

2014年の教義会則改定により、以下の変更がありました。


「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする。」(2002年)

「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする。」(2014年)

 

 

文字の上から判断出来ることは、三大秘法から大御本尊(弘安2年の板本尊)が切り離されたことです。その上で、三大秘法を、根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたとし、法が根本になっています。しかしながら根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法という表現がどういう意味なのか判然としません。「本門の本尊」が南無妙法蓮華経を具現されたというのはわかるが、本門の題目は南無妙法蓮華経そのもので、具現されたも何も関係ないのでは?本門の戒壇は南無妙法蓮華経を具現された何にあたるのか?疑問が残ります。解説には、「本門の本尊」に唱える南無妙法蓮華経が「本門の題目」であり、その唱える場がそのまま「本門の戒壇」となるとあるが、この説明ならば、本尊が中心であり、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された曼荼羅本尊を信じ、でよいと思います。あるいは、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された一大秘法の曼荼羅本尊を信じでも良い気がします。三大秘法という言葉を、大御本尊抜きに説明するために文章を考えたのではないか?いっそのこと、2002年の教義そのままに大の文字だけ抜かし、一閻浮提総与・三大秘法の御本尊を信受し、でも良いのではないでしょうか。

細かい点を挙げるならば、人間革命や世界広宣流布という創価学会用語が新たに追加され、創価学会の独自の教義というものを演出しようとした努力を感じます。

 

総じて論じるならば、現在の創価学会の教義の正邪(正誤)を、会則文から判断するのは難しいです。文言として何を示しているのかわかり辛い部分はあるが、明らかな間違いがあるとは言えないのではないでしょうか。しかしながら、教義変更の説明の方には矛盾点や疑問点が多く、創価学会の意図している教義が何であるか、創価学会は何を目指しているのかふめいです。信仰という観点からは筋が通ったものが見えません。強いて言うならば、海外での布教活動をし易くするため、日蓮正宗との関係性を消すため、都合の良い方向にシフトするための手段として変更したといえるのではないでしょうか。

 

前の方の記事でも何回か書きましたが、創価学会日蓮正宗、共にもともと教義の一貫性などありません。私は教義会則を変更すること自体は賛成です。問題にしているのは、その意図や方向性、根っこにある目的です。

 

会則変更を用いてこれまでの創価学会の統括を行うならば、大御本尊の意義について突っ込んで考えることになるでしょう。そこには、大御本尊の建立過程についての文献的な検証も関係してくるかもしれない。また、過去の創価学会の行いを再評価(批判)することになるかもしれません。いずれにせよ、創価学会にとっては茨の道であるし、現状では敢えてそこに近づくとは思えません。大御本尊が、信仰教義の正当性と信仰集団の組織的正統性(歴史的な経緯)という非常にセンシティブな位置にあるのは事実ですが、正当性と正統性を混同してはならないと思います。