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蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

創価学会の教義会則変更(2014年)について(1)

今更ですが、創価学会の教義会則変更(2014年)の解説について、ツッコミを入れていきます。私も自分が所属している団体を非難したくはないですが、看過できでません。内容以上に、自分達が信じているであろうことに無関心な会員が多いことを無視できません。この無関心集団が、家庭、地域、社会に影響を与えているかと思うと……。

 

「解説」の部分は、2014年の教義会則変更に関して聖教新聞に記載れた内容です。

(ツッコミ)の部分が、私の意見です。

そこそこマニアックな内容になります。

 

「解説」

日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、等しく『本門の本尊』である。

(ツッコミ)

日蓮真筆の本尊の中には、十界が書かれていないものもある。極端な例だと、一番初めの曼荼羅本尊には、題目と日蓮梵語しか書かれていない。それ等を含めて平等に本門の本尊としてしまうのか不明です。曼荼羅本尊の相貌に差別は設けないのか、弘安年間とそれ以前の本尊を一緒にしてしまうのかも不明。真筆本尊は全て他宗が管理しているが、これ等も信心次第で本門の本尊になるのだろうか。

 

「解説」

大聖人の仏法における信仰の本義は、「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法」を信じることにある。具体的には、広宣流布を願い、御本尊を受持し弘めるという自行化他の実践であり、それは日々の学会活動そのものである。そのことを「御本尊に自行化他にわたる題目を唱え」と表現した。「受持」とは、「受持即観心」の法理に示されている通り、南無妙法蓮華経という根本の法が具現された御本尊を信じ、唱題することによって自身の内にある仏界が湧現する。したがって、御本尊の力用は、自行化他の実践があるところに発揮される。大聖人の御本尊は、「法華弘通のはたじるし」(御書1243ページ)すなわち民衆救済のための御本尊であり、広宣流布のための御本尊である。御本尊は広宣流布の誓願、信心で拝してこそ御本尊の力用が発揮されます。

(ツッコミ)

広宣流布とは何か?弘めるべき本尊とは何か?具体的な活動は価値的であるかを検証しなければならない。創価学会は無謬であるという発想は間違い。御本尊は広宣流布の誓願、信心で拝してこそとあるが、これも広宣流布とは何か?を考えなければ始まらない。

 

「解説」

魂の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することなく、弘安2年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大なる功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきた。

(ツッコミ)

具体的に功徳をどう受けてきたのか?はなはだ疑問です。そもそも、2002年の会則変更以降も(宗門と離別した1991年以降も)謗法の大石寺にある大御本尊を受持の対象としてきたが、それでも功徳を受けてきたのではないか?大石寺に登山していたかどうかは関係ない。

 

「解説」

創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定する。

(ツッコミ)

認定権なぞ誰にでもあります。責任において認定すると言っているにもかかわらず、明確な認定もなければ、本門の本尊の範囲も不明瞭です。

 

「解説」

したがって、会則の教義事項に言う「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない。

(ツッコミ)

繰り返しになるが、2002年の会則変更以降も謗法の大石寺にある大御本尊を受持の対象としてきたが、それでも功徳を受けてきたのではないか?謗法の地にあることが受持の対象にならないのであれば、従来の創価学会の基準で言えば、他宗にある全ての日蓮真筆本尊は受持の対象にならない。

 

「解説」

「本門の本尊」 としては、「弘安2年(1279年)の御本尊」 も含まれるが、それのみが 「本門の本尊」 だとするものではない。まして、「弘安2年の御本尊」 に繋がらなければ、他の本尊は一切力用を発揮しないなどとする宗門の独善的な本尊観は、大聖人の仏法に違背するものであることは明白である。大聖人が、「弘安2年の御本尊」 を御図顕されたことも、この三大秘法の確立と民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える。

(ツッコミ)

これまでの創価学会の説明とはまるで逆。昭和時代の創価学会の活動を全否定することになる。弘安2年の大本尊を日蓮の真筆としているが、これには否定的な意見が多い。このあたりの整合性をどうするのか?

 

 

「解説」

これまで日寛上人の教学に基づいて、「一大秘法」 や 「六大秘法」 ということを使用してきたが、「一大秘法」 が 「本門の本尊」 であるという日寛上人の解釈は、御書にはない。御書に「一大秘法」と教示されているのは、「曽谷入道殿許御書」のみである。そこでは、「妙法蓮華経の五字」(御書1032頁)を一大秘法として明かされている。日寛上人が用いられている三大秘法を合した「一大秘法」、また、三大秘法を開いた「六大秘法」という表現は、御書そのものには説かれていない。

(ツッコミ)

妙法蓮華経の五字」(御書1032頁)を一大秘法としているが、これが題目なのか本尊なのかは明確ではありません。法華経妙法蓮華経、教主釈尊という単語がそれぞれの遺文で、何を意味しているのか(文脈上示すものが文言そのものと=かどうか)検討が必要。曽谷入道殿許御書には一大秘法という言葉は2回出てくるが、一箇所については虚空会の儀式についての記述がその後に続き、一大秘法が曼荼羅本尊を表現しているようにも思えます。

 

「解説」

「受持」とは、創価学会が認定する御本尊に、自行化他にわたる題目を唱えることを意味している。すなわち、「受持」は、「実際に目の前で拝む対象」にするという意味を持つが、このような外形的な行為にとどまるだけでなく、当然、積極的な意味での信心が含まれる。これまで創価学会本部並びに各会員の家庭に授与されている御本尊はすべて学会認定の御本尊であり、具体的な信心の活動としては、これまでと変わりがない。

(ツッコミ)

大御本尊を受持の対象とせず、大御本尊書写の本尊を受持する正当性はどこにあるか不明です。そもそも、日寛本尊自体が、大御本尊の相貌をそのまま書写されているわけではない。これをどう解釈するかも不明瞭です。日寛本尊は大御本尊の御内証を書写したものと説明されてきました。現在の創価学会において御内証という意味をどう判断するのかも不明。その上、大御本尊が真筆である保証はないです。これまで創価学会本部並びに各会員の家庭に授与されている御本尊はすべて学会認定の御本尊とあるが、これ等はほぼ全て、大御本尊の御内証を書写したという認識でこれまで受持してきたわけだが、この辺りをどう突破するのか?

 

 

以上、これまでに考えたことを羅列してみました。私より教学力にたける方など星の数ほどいらっしゃいますので、私のツッコミに再ツッコミも可能かと思います。

私は、日蓮遺文の解釈行為自体に思うところがあるので、細かい遺文検討作業には今は近づかないつもりです(興味は大いにあります)。