蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

教学全般について(2)

教学全般で考えていることの続きです。ざっくばらんに話します。

 

 

教義論争で厄介なのは、相承、相伝の類です。日蓮は文章化しなかったが、日蓮の意図や意思、あるいは真意がそこにあるとされる文章群です。日蓮遺文(真筆を中心)を主軸に議論する方にとっては、存在自体が非難の対象です。あるいは相手にしません。相承、相伝も真偽論争の対象になりますが、どちらかというと、真偽論争から派生して他教団批判の種になることが多い印象です。さらに言うと、日蓮宗vs日蓮正宗系の論争、日蓮正宗系内部での論争の火種の大半ではないでしょうか。

 

次に、用語(三宝、出世の本懐、勧心など)の解釈についてです。専門用語の解釈が議論の対象になるのはどの分野でもみられることでしょう。用語それぞれの一般的な意味、日蓮自身がどの様に解釈していたか、それぞれ議論の対象になります。議論される用語は沢山あるかと思います。私自身は「心」という単語の解釈に興味があります。九識論と日蓮の関係などもそうですし(九識論に言及している遺文で、真筆が現存するものは無かったと思います)、日蓮の「心」観というものが今の科学では何に当たるのか結構考えたりします。

 

本尊論も頻繁に話題になるテーマです。文字曼荼羅、釈迦像、日蓮御影。遺文とその解釈を用いて、信仰の対象とすべき本尊は何かが議論されます。文字曼荼羅の相貌、日蓮本仏論と関連しての釈迦像、日蓮御影と人法一箇など。本尊議論も、その正当性と正統性を巡って、各教団間の紛争の火種となります。また、本尊(文字曼荼羅等)を作成したこと自体が議論の対象となることもあります。仏像とギリシャ文化など、時代をさかのぼって議論されることもしばしばあります。

本尊議論に関連して大御本尊にも触れておきます。弘安二年に日蓮が建立、あるいは図顕したとされる曼荼羅本尊です。これは、日蓮正宗系の団体には大きな意味を持ちます。日蓮宗日蓮正宗系の大きな違いの一つがここにあります。この大御本尊の真偽論争は古くから存在しました。最近の研究で、ほぼ決着がついたように思えますが、様々な理由からこの大御本尊に特別な思いを寄せている方もいます。

 

どれだけ考えても、思索しても、万人が納得するような教義を打ち立てることはできないかもしれません。信仰という個人的な行為を、一般化すること自体に無理があるのかもしれません。現代では、どのような個人も、学術成果のような普遍性を売りにする情報の影響から逃れることはできません。特定の信仰を持つ持たないを決めるのも個人。特定の信仰の中身を解釈、判断するのも個人。究極的には自分で決めるしかありません。

 

創価学会に限らず、特定の思想を掲げる団体に所属し続けるには、考えないこと(思考停止)が条件として必要なのかもしれません。行動(実践)ありきの組織が多いですが、上手くいっていないと感じた時は、立ち留まって考えることも大事ではないでしょうか。