読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

教学全般について(1)

教学全般について、今私が考えていること、思うことをざっくばらんに話します。

 

教義論争の多くは、遺文の真偽判断、取捨選択作業に帰着します。

日蓮という人物が残したとされる文章には、日蓮自身が書いた文章が現存しているもの、かつて存在したけれど現在は失われてしまったもの(本当にかつて存在したかどうかの信頼度も議論の対象になる)、写本が残っているもの(写本にも様々ある。直弟子の写本は信用度が高いとされる)、真偽未決のもの(これが一番厄介)、偽書と断定されているものがあります。現在、日蓮が記したとされる文章のうち、約4割に真筆が存在し、写本などにより全体の6割程度が日蓮の文章であると考えられています(小林正博氏「日蓮文書の研究(1)」より。ネット上で無料閲覧できるPDF形式の論文です)。残りの文章に関しては、真偽未定あるいは偽書です。

 

私自身は、日蓮研究家でも日蓮遺文のプロでも何でもないので、どの文章が日蓮真筆か偽書かについて、積極的には触れません(触れても価値ある話を多分できません)。

日蓮系信仰者、関係者の日蓮遺文に対する態度を文章の真偽(日蓮直筆かどうか)という観点から分類すると以下4パターンではないでしょうか

①真偽の判断をしても遺文に信仰的価値を求めない方

②真偽を判断した上で真筆文章にのみ信仰的価値を求める方

③真偽を判断しつつ真筆文章以外も含め信仰的価値を求める方

日蓮が残したとされる文章全てに何らかの信仰的価値を求める方

 

判断を下しているのが誰かは問いません。自身の研鑽の末判断する方もいれば、特定の教団/集団のスタンスを受け入れているだけの方(場合によっては、日蓮遺文の真偽、日蓮遺文そのものにすら興味がない場合もあります)もいます。また、現在研鑽中、実証実験中という方もいるでしょう。文献上の研鑽ではなく、体感によって納得した方もいるでしょう。

①~④を経た上で、⑤~⑦の新しい道を歩む方もいます。

日蓮への興味を無くした方

⑥宗教あるいは信仰への興味をなくした方

⑦特定の教団、経典、遺文に執着せず、新しい信仰を創り上げようとする方

 

上記以外の別スタンスに移る方もいるでしょう。考える人ほど悩み、揺れ動くものです。私はそれを悪いことだとは思いません。

 

 

①は信仰上の価値判断には踏み込まないという研究者的な立ち位置です。しかしながら、日蓮研究を行っている人で特定の宗教団体に、あるいは自身の信仰心に関りを持たない方がどの位いるかは不明です。信仰上の価値判断には踏み込まなくとも、どこかの宗教団体、あるいは自身への価値提供は行っている方が多いのではないでしょうか。文献学という学問上の権威を用いて特定の宗教団体、または宗教そのものを攻撃している方も散見します。あくまで私の印象です。

 

④の立場の方は理論上存在するのですが会ったことも見たこともありません。戸田城聖時代の創価学会はこのスタンスに近かったかもしれませんが、日蓮宗(身延)発行の遺文集との差異などをどの様に捉えていたが不明なので、何とも言えません。遺文集を作成する段階で、文章をセレクトするので、④の立場自体があってないようなものかもしれません。

 

②の立場の方もそこまで多くないと推測します。極端な真筆「現存」主義に走ると、重書とされる開目抄や報恩抄を採用できなくなります(両遺文は真筆が現存していない)。現存する真筆遺文のみで、日蓮系の教団を運営するのは厳しいものがあります。現存していない文章を推定真筆と認め始めると、③の立場との差が事実上なくなります。

 

③の立場をとる方が一番多いと思います。議論の幅は非常に広く、何をもって判断基準にするかが一つポイントとなります。特定の教団に所属している場合、遺文採用の判断基準は所属教団の意向を反映しがちです。遺文の取捨選択基準として、法華経、他の仏典、法華経翻訳過程、人間釈尊、各教団の生い立ち、教団指導者などが議論の対象となります。

以下に何点か、私が感じた議論上の特徴を記載します。

 

  • 法華経その他諸経(特に大乗経典)がそもそも論で歴史上の人物としての釈尊の直筆でないという観点から、極端な真偽論争に懐疑的である。
  • 歴史学上の大乗非仏説をまず受け入れて、その上で日蓮遺文を解釈する。
  • 日蓮自身の歴史学上の認識違いへの言及(日蓮法華経釈尊の直筆と考えていたが、これは学問的には否定されている)
  • 法華経そのものへの言及(成立過程に対する意義、経典内容への価値判断等)
  • 法華経以外の経典への言及(日蓮が遺文のなかで法華経以外の経典からも多数の文章を引用していることに関連、また日蓮自身が法華経以外からも影響を受けているなどの観点)
  • 法華経翻訳過程への言及(日蓮が読んでいたのは鳩摩羅什という方の翻訳なので、その翻訳への批評なり価値判断)
  • 歴史上の人物としての釈尊への言及(教団運営、組織化、釈尊に特定の思想をまとめ上げる意思があったか等)
  • 真偽というものを文献学上の成果から判断しないこともある。例えば、「正しい信仰心があれば遺文は真となりうる」という発想は、③に当てはまりつつも、真偽の判定基準は学問的な分野からは離れる。信仰心(あるいは教団の都合)が先にあって、遺文を解釈していることもある。

 

③の立場の方で、自分の判断で遺文の取捨選択を行うようになれば、事実上⑦のスタンスかと思います。特定の教団に所属しながら、自身の解釈で信仰を行うのは難しいものがあります。特に、教団への思い入れが強い場合は尚更です。

 

 

今現在の私は、③⑤⑥⑦の間をぶらぶらしています。

創価学会の行く末に限らず、21世紀の宗教、信仰について、悶々と考えることが多いです。