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蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

創価学会の歴史(1945‐1979年)

復習を兼ねて創価学会の歴史を私になりにまとめました。大まかな流れを客観的に記載したつもりです。今後、更に記述できることがあれば適宜追加します。

戦前の創価教育学会に関しては現状ではまとめるのが難しい(資料不足および私の勉強不足)ので、戦後(1945年以降)の創価学会を中心に記載します。

 

創価学会という組織は、日蓮正宗という日蓮系教団の信徒団体としてスタートします。創価学会以外にも日蓮正宗に属する信徒団体(法華講)は存在しました(今もあります)。終戦直後、創価学会は複数ある日蓮正宗系団体の一つに過ぎませんでした。

日蓮正宗の信徒団体ですので教義は日蓮正宗のものに準じていました。

一方で、創価学会は当時から宗教法人としては独立していました。

日蓮正宗と同一の教義を信仰しながらも、宗教法人としては独立していた。それが創価学会の生い立ちです。

 

創価学会は二代会長戸田城聖のもと折伏、つまり創価学会員の拡大運動を猛烈な勢いで開始します。折伏活動は、1960年代-70年代前半に入信者のピークを迎えるまで、創価学会の活動の中心でした。それと同時に、日蓮正宗(出家僧)を外護する信徒(俗)の集まりとして活動し始めます。外護するという立場から、日蓮正宗の教えの正しさを外に対して発信する役割を持っていました。

熱狂的な信徒団体の出現とその信徒団体による拡大運動(折伏)は日蓮正宗というマイナーな教団の知名度を急速に上昇させ、同時に、彼ら自身の教義を世間の目に晒すことになります。

創価学会の拡大運動は全国各地で他教団との宗教論争を誘発させますが、同じ日蓮系各派とは日蓮の後継者という立場を巡り激しく衝突します(小樽問答は有名ですね)。

創価学会勢力拡大の過程で日蓮正宗を、日蓮唯一の後継団体であると宣揚しました。日蓮の正統な流れは日蓮正宗法主にしか受け継がれていないと。また、戒壇本尊、いわゆる弘安二年の大御本尊に繋がらなければ日蓮の信仰にはならないと主張しました。日蓮の文字曼荼羅本尊に題目を唱えるにしても、大御本尊が無ければ無意味であると主張していました。戸田城聖は、日蓮の文字曼荼羅でも日蓮正宗以外のものは魔の住処であると論じています。

 

創価学会は、戸田城聖が亡くなり(1958年)、池田大作が会長になった(1960年)後も、日蓮正宗の教義を用いて拡大運動(折伏)を続けます。

拡大運動(折伏)は、現在に至るまで創価学会の活動軸の一つですが、創価学会全体の活動内容は時代と共に少しずつ変化します。誕生以来強烈な拡大運動(折伏)を行ってきた宗教団体は少しずつ社会への関与を強め、単純な宗教団体ではなくなっていきます(戸田会長時代から、社会、政治分野への進出は始まっています。創価学会の社会進出の淵源は戸田時代です)。

 

海外交流、公明党を通した政治参加等。単純な宗教活動だけでなく、より社会に密接した分野での活動を強化し始めます。海外交流は海外布教という宗教活動を含みます(海外にいる創価学会員を訪問。その後の海外での布教活動の基盤つくり)が、海外の政治勢力(特に米国)と関係を持ち始めるという点で、特記すべきと私は考えています。

海外での布教活動は、その後の創価学会の方針に大きな影響を与えます。日本で用いた布教方法では海外での布教活動が困難であることを認識します(ハワイレポート参照)。

また社会への関与を強めるほどに、創価学会への社会からの視線(レスポンス)も強くなります。言論問題の発生が1970年です。

1971年には創価大学が開学します。創価大学は、創価学会と密接な関係にある大学ですが、授業や講義の中に、日蓮正宗日蓮の教学を学ぶ機会はありません。宗教団体系の大学でありながら、信仰を学ぶ授業はありません(私の知る限りです)。

創価大学を建設したことは創価学会池田大作)が単純な日蓮正宗の教義を喧伝するだけの団体でなかったことを示しています。

1972年には正本堂が完成します(正本堂に関しても言及できることは多数あると思いますが今は控えます)。正本堂は当時の金額で350億円程が使われた大建築物です。

正本堂の完成は、マイナー(弱小)な日蓮系宗教団体であった日蓮正宗創価学会という強力な信徒団体の手によって、日本宗教業界最大手の一角にのし上がったことを内外に示しました。

 

そうした中、創価学会は信仰の内容に関しても新しい動きを見せます。所謂、昭和52年路線と言われる活動方針です。昭和52年路線とは何か。端的に言うと、創価学会日蓮正宗の教義と少し距離を置き始めました。より正確に言うならば、日蓮正宗原理主義者であることを辞めようとしました。

具体的な行動としては、「私の釈尊観」「私の仏教観」「法華経を語る」の発刊がそれにあたります。池田大作流(創価学会流)の仏法解釈の公表です。

結果的にこれ等書籍の発刊は、いわゆる第一次宗創問題(学会では第一次宗門問題と言います)を誘発することになります。第一次宗創問題は、創価学会側が日蓮正宗に詫びを入れ、池田大作会長の辞任という形で終結します。

 

随分と端折りましたが、それでも少し長くなりました。最後に簡潔にまとめます。

創価学会日蓮正宗の信徒団体として誕生し、日蓮正宗の教義を用いて拡大運動を展開、戦後の日本混乱期から1960年代にかけて会員数を急速に増加させた。会員の増加と共に選挙

活動などを通して積極的に日本社会へ進出し、単純な宗教団体ではなくなった。1970年代の後半になると創価学会独自の教義解釈を公表するようになり、それが日蓮正宗本体と紛争(第一次宗創問題)を誘発。第一次宗創問題は、創価学会側が池田大作会長の辞任という形で終結した。

創価学会の歴史(1945‐1979年)はこの様になります。

第一次宗創問題で池田大作が会長を辞任させられた後は、紆余曲折しながら1990代初頭の第二次宗創問題へと突入、創価学会日蓮正宗と袂を分かつことになります。

 

第一次宗創問題前後についてもう少し掘り下げて調べてみたいと思います。

 

 

補足

「革命の大河‐創価学会四十五年史」という1975年に出版された創価学会の歴史をまとめた書籍があります。この時点で既に意図的な編纂(歴史の抹殺)が見られますが、1975年以降、創価学会はまともな通史を発刊できていません。現在でも「最新の」学会通史書となります。