蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

目次

はじめに(自己紹介) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

私は蓮の落胤である - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

教義・教学全般

教義の一貫性 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会と日蓮正宗の教義は、どの段階まで一致していたのか - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会の教義変遷と宗創問題 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

教学全般について(1) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

教学全般について(2) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会の教義会則変更(2014年)について(1) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会の教義会則変更(2014年)について(2) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会の教義会則変更(2014年)について(3) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

大御本尊と日蓮本仏論の文献学的な考察に触れない場合 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

本仏論の行方 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

教義会則変更の片隅で - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田名誉会長の大御本尊観(2002年以降) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会の独自教義 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

議論をする前に - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

日興の扱いについて(前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

日興の扱いについて(後編)ー宗教法人として - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

「無量義経」にたいする創価学会の態度(グレーゾーン対応) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

「戸田会長の悟達(神秘体験)」に対する創価学会の解釈変遷 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

日寛本尊は三番手以降だった(宮田教授のHPより) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

ラーメンとラーメン屋、旨い不味いと原産地 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

「若悩乱者頭破七分」と「有供養者福過十号」 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

価値創造の由来と「生命論」の元ネタ? - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

約100年前の日蓮解釈が感慨深い - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

日蓮は何を残したかったのか - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

公明党・政治関係

選挙活動の思い出(投票率報告) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会の政治介入(八尋副会長アメリカ大使館に行く) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

公明党は右傾化したか - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

自民党との連絡役は八尋頼雄氏(2006年当時) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

原田会長アメリカ大使館員と会談す(自衛隊海外派遣に関する見解) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

公明党(山口那津男議員)と原田会長:自衛隊海外派遣に関する見解の相違 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

矢野元委員長に都議選。都合が悪いから早く解散して。 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長と公明党の不一致(1975年、竹入公明党委員長の池田会長批判) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長は公明党の方向性に不満を抱いていた(1975年、創共協定に関連する外交公電より) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長と公明党の関係につて(暫定的なまとめ) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

1977年の二枚舌(公明党安全保障政策の変遷-前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長の一存に非ず(公明党安全保障政策の変遷-後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

不明瞭な意思決定機構(公明党の安全保障政策の変遷-番外編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

政権運営者への道(前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

政権運営者への道(後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

公明党は歴代2位の与党歴(日本に誕生した連立政権を振り返る) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

公明党を振り返る(前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

公明党を振り返る(後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

立憲民主党支持者は学会員を理解できるか - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

名護市長選と公明党(基地問題で揺れた20年) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

50年前の沖縄選挙と公明党(1968年行政主席選挙に関する米国公文書) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

名護市長選を全国一丸・総力戦で「支援」する創価学会(一つの記録として残します) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

名護市長選を振り返る(数字と創価学会の選挙支援から-「人付き合い」がイデオロギーに勝利した) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

安倍政権とスキャンダル(伊藤詩織さんに関する事件報道で思い出したこと) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

昭和54年、池田会長辞任に関するアメリカ大使館の考察-主に公明党への影響に関して - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

振り回された沖縄公明党&沖縄創価学会員(1969年の公文書に見る本土公明党の沖縄干渉) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会と自民党(1990年代を簡潔に) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

10年前を振り返る(2009年衆院選前後の思い出) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

歴史

創価学会の歴史(1945‐1979年) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会の歴史(1979年前後) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

宗創問題と創価学会独立 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

米国公文書に記録され続ける昭和54年問題 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

第二次宗創問題の裏で(宮田教授のHPより) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会の推移と考察(Ver1.0) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

人物

第一次宗創問題と山崎正友 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

宗創問題と石田次男(1) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

宗創問題と石田次男(2) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

宗創問題と石田次男(3) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田大作怒る(創価大学入学式) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田大作は創価学会の中心にあらず - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

弓谷照彦と青春対話 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田名誉会長の入信経緯について - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

創価学会本部周辺

学会本部および関連職員に関して(内定者から聞いた話) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

学会本部および関連職員に関して(教育システム) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会と日蓮宗の連携?(宗派を超えた法華経研究会) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

本部職員の存在意義 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

信濃町に目を付けられてしまう人 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

会員・組織

未来部合計20万人の現実 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

査問について - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

川崎学生部について - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

世界広布は進んでいない(SGI-USA会員の大幅な減少) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

宿坊の掲示板について(会員間論争の活性化) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

元創価学会職員3名を批判する前に - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

男女青年部120万人の算出方法と未来部1学年8000人の出所 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会が失敗した理由 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

SNSと創価学会とイラク戦争問題 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

会員が創価学会から離れる理由 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

不祥事

創価学会水泳選手権 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

原田会長の愛人疑惑について - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

NTTドコモ事件(創価学会員による携帯電話通話記録窃盗事件) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

ある人材グループで起きた事件(歩いていて背中に視線を感じる) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

創価大学

創価大学における言論の自由 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価大学への人事干渉(質問したらクビになる) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

K元副学長の件(職員による讒言) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

創価学会その他

不透明な平和思想 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

「創価学会の平和思想」に関する本質的な課題 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 「内側から見る 創価学会と公明党」のレビュー(全体の雰囲気に関して) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

「内側から見る 創価学会と公明党」ー「創価学会と会社」は「道徳教」の分派 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

  

宗教全般

補陀落渡海 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

 

雑感

池田大作についての所感 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

信仰の試行錯誤 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会に気概なし - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

物語の成立条件 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

「創価学会員物語」の終焉 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

創価学会オリジナルの物語(中心は婦人部) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

殆どの創価学会員は諦めたのだと思います - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

「ただ心こそ大切なれ」で大丈夫ですか? - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

新年勤行会に参加した雑感 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

10年前を振り返る(2009年衆院選前後の思い出)

 

2009年、創価学会は大逆風の中にいました。

 

2007年の第21回参議院選挙に大敗した与党自民党公明党。事前に劣勢であることを認識していた創価学会はかなり早くから選挙態勢を強いて敷いていましたが、改選前23議席を20議席に減少させ敗北を喫しました。

 

参議院選挙での敗北を1つの契機に第1次安倍内閣は崩壊。次に立った福田内閣も約1年の短命に終わり、次に成立したのは麻生内閣でした(2008年9月発足)。

 

政権交代を訴える民主党に勢いがあり、創価学会公明党の関係を今更ながら政教分離云々と訴え、創価学会への攻撃を強めていました。新聞やテレビなどの既存のメディアが民主党を推し、政権交代を促し、与党に対して否定的な時期でした。

 

矢野絢也公明党委員長との裁判が泥沼化していたのもこのタイミング。週刊誌各紙も、四月会問題当時ほどではないにしろ、創価学会ネタを展開していました。

 

新しく台頭しはじめたメディア(Youtubeニコニコ動画またはMixi等のSNS)も創価学会を笑いのネタにしていました。T田一派や日衛会が活発にPV活動していた頃でもありました。

 

目指せ広布の一千万(比例票1000万票獲得)が失敗に終わり、これといった打開策もなく、政権は逆風、かつての同志に訴えられ、既存&新規メディアにネタにされと創価学会にとっては四月会問題以来の試練の時でした。

 

そんな中迎えた麻生内閣創価学会が見据えていたのは次の国政選挙、第45回衆議院議員選挙でした。衆議院の任期満了の関係から、2009年8月までに衆院選がやってくることは決まっていました。焦点となったのはその時期です。

 

当時のニュースを追いかければわかりますが、創価学会は早期解散選挙を望んでいました。劣勢は免れない。2009年は都議選(7月12日)も控えていたので、政権と創価学会に逆風が吹くビハインドな状況で、選挙リソース(創価学会員)を都議選と衆議院選挙に分散されることを避けたいと思っていました。

  

創価学会公明党が、矢野元委員長の影響と都議選とのバッティングを避けるために、早期解散を望んでいたことは外交公電に記録されています。

 

矢野元委員長に都議選。都合が悪いから早く解散して。 - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

ちなみにですが、八尋副会長が麻生幹事長を低評価していたことも記録されています。

 

創価学会の政治介入(八尋副会長アメリカ大使館に行く) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

これは完全に私の記憶ですが、2008年末から2009年初頭にかけ、一瞬選挙体制が敷かれそうになって撤回された経緯があったと思います。上から降りてくる指示が、一瞬だけ衆議院選挙を意識したモードになった後、折伏・友好活動への変更から都議選体制という流れだったとおぼろげながらに記憶しています。

 

まぁ結局、衆議院の早期解散はされませんでした。皆様ご存知の通りです。早期解散がないまま都議選期間を迎え、暗い未来しか見えない衆院選をとりあえず脇に置き、創価学会は首都決戦に挑みました。

 

2009年当時は民主党創価学会批判が強かったこともあり、会館での選挙資料印刷禁止・配布物の保管禁止、会館周辺での選挙会話禁止、選挙の報告は隠語を使う等、「厳重警戒」な選挙活動を指導していました。

 

当時の青年部では、「フリーザ倒してきました」「ドラゴンボール集めてきました」「ファイナルファンタジー購入してきました」「レベルが上がりました」(大体の趣旨です)と意味は分からないけれど意図は伝わる謎の選挙報告が飛び交っていました。

 

若年層の選挙活動はかなりキテレツなレベルでして、近隣住民の非難によりニコポン(道すがら出会った人物や一度も訪れたことのない商店での選挙支援……究極の飛び込み営業みたいなものです)はある程度抑制されていましたが(まぁやりましたが……)、それでも通報されかねない選挙活動が蔓延していました。

 

一例をあげますと、選挙重点区に遊びに行き、適当な場所で現地民と思わしき若者と仲良くなり一緒に遊び写真を撮り、写真を送りたいから連絡先を教えてほしいと言って相手の連絡先を把握するという手口がありました。この連絡先が選挙で役に立ちます。公明支援を頼むのです。

 

都議選は全国総出の支援活動のおかげで、公明党(創価学会)は「全員当選の伝統」を際どく守ることができました。連立相手の自民党民主党にボロ負けしたので、都議会において自公は過半数を割るわけですが。

 

なんとか都議会の議席を守った創価学会でしたが、都議選は前哨戦に過ぎませんでした。2008年末から創価学会が危惧していた選挙、第45回衆議院選挙が遂にやってきます。

 

2009年7月21日、内閣支持率20%を切るまで悪化した麻生内閣が追い込まれる形で衆議院を解散。都議選終了から10日ほどで、創価学会は約1ヵ月後の投票日(8月30日)に向け再び全力で走りだしました。

 

2007年の参議院選創価学会は2007初頭から選挙活動に全力投球しましたが民主党に惨敗(学生部レベルですら2007年初頭から選挙だった)。その時以上にビハインドな状態で勝算は……2009年の夏、創価学会(現場)はかつてない危機感で選挙活動に取り組んだと思います。特に首都圏活動家は都議選支援を通して状況の不利を肌で感じていたでしょう。

 

信濃町はどうでしょう。勝ち目がないことを認めて諦めていたかもしれませんね。

 

2009年の夏、選挙期間が長期休暇中ということもあり、学生部員は都合よく選挙活動に動員されました。2009年の夏の思い出が選挙活動になってしまった学生部員は結構いるのではないでしょうか。

 

帰省して地元票(地元の友人に会ってくるor投票所に連れ出す)を取る時期を各々の幹部で調整し、八王子における日々の拠点闘争(8月は毎日やったと思う)を運営する……2009年8月の八王子はそういう場所でした。

 

重点区への遠征という点では、八王子学生部として神奈川6区(上田勇氏の選挙区)の支援(大々的なニコポン闘争)に駆り出されたのを覚えています。保土ケ谷区の保土ケ谷公園において、散歩中の地元民に声をかけ公明支援を呼びかけました。二度とやりません。

 

電話による選挙支援も中々激しかったですね。毎日の拠点闘争で必ず電話タイムがありました。一人では無理でもみんなで集まってノリ良くやろう……数年間連絡をとっていなかった旧友達との気まずい電話は忘れられませんね。

 

1ヵ月間の短くもしんどい長い学会員の支援活動も虚しく公明党は大惨敗。太田昭宏代表を含め小選挙区8名全滅。2009年8月30日、創価学会は歴史的な敗北を喫しました。

 

選挙最終日の深夜、大阪のある選挙区の支援活動に飛ばされていた職員幹部が拠点に立ち寄って「いやー厳しい。後2000票足りない。誰が2000票くらい入れてくれないか」と具体的な数字を挙げながら厳しい選挙戦を振り返っていたのを覚えています。

 

歴史的敗北から10年。創価学会が抱えるシチュエーションはどう変化したでしょうか。日本はどう変わったでしょうか。

 

2009年、創価学会は外からの烈風に晒されていました。対戦相手が微妙に変化したものの、強い相手に負けた (内側に多くの問題を抱えていたとはいえ)、それまで通りの試合だったのではないでしょうか。

 

2019年はどうなるでしょう。外からの強い風は吹いていませんが、組織の内側に隙間風が流れていますね。創価学会公明党に対して不満を抱えている会員が明らかに増えました。少子高齢化が進み組織の基礎体力が低下しました。2017年の衆院選では比例票が700万票割れ、選挙区候補も1人落としました。

 

1999年の自自公連立政権樹立からの10年間は、創価学会が対外的な圧力と戦った最後の10年だったように思います。山崎正友氏の最終楽章、共産党ハード路線最後の攻勢、矢野元委員長との暗闘、社会党四月会系議員との攻防、インターネットの興隆……

 

2009年からの10年間は、内側の矛盾が噴出した10年だったのかもしれませんね。教義問題、職員の権力闘争、名誉会長の不在、公明党の政策転換。あッという間の10年でしたが、トドメの10年だったのかもしれません。

 

2009年の都議選と衆院選。選挙支援はやりたくないからやらないけど拠点に来て一緒に勤行して話して帰る……そういう学生を受けいれる大らかさが、少なくとも私の所属していた組織にはありました。右左入れ混じった政治論争も、議論の程度はともかく、可能でした。今はどうでしょう。

新年勤行会に参加した雑感

久しぶりに会合に参加したが、そこで実感したのは創価学会のどうしようもない劣化であった。ここ数年、新年勤行会に参加するたび創価学会の衰退を感じてはいたが、今年は一段と大きな褪せりを感じた。

 

以前、新年勤行会は何日間開催していただろうか。多くの地域で、1月3日まで開催していたはずである。それも1日4回(だいたい2時間おきに開催)参加できるタイミングあった。最終日は多少回数が減るので、合計10~12回の勤行会があった。

 

それが何年か前からか、1月2日まで合計5~6回の開催に、約半分になった。地域によっては1月1日にしか開催していないと思う。

 

参加者の人数が減ったのは勿論だか、会合を運営する役員を揃えることができないとのことだった。確かに、地方の組織では青年部の活動家が絶滅しかけている。

 

参加者における青年層の割合は1割を余裕で切っていたと思う。男女青年部の活動家の大半は役員に就いていただろう。それでも駐車場の警備は王城会(壮年部)との共同運営であった。とにかく青年部がいない。

 

「青年を先頭に勝利していきましょう」と挨拶していたが、確かにその通り、青年は役員として前に座っている人達だけだ。

 

会場を見渡せば高齢者のなんと多いことか。創価学会少子高齢化は世間のソレをはるかに上回るスピードで進んでいる。細かい統計を取らなくとも見ればわかる。そういうレベルまで悪化していた。

 

あの高齢者達が亡くなる頃には、今以上に創価学会の衰退は進んでいるだろう。彼等はいまわの際、創価学会や自身の活動をどう総括するだろう。完全に他人事であるが、悲しくなった。なんと罪深い組織かと。

 

ルネサンスバンガードの映像が放映されたが、以前なら地域の未来部が合唱なり演奏なりをしていたと思う。そういうことが出来ない地域が増えたのだろう。青年層も少なかったが、小学生~高校生に該当する未来部も殆ど見なかった。絶対数が減っているだけでなく、参加する子供の数も減少しているのだろう。1学年8000人の現実がそこにあった。

 

池田名誉会長の映像にはかなりの違和感を覚えた。昨年の勤行会で何をやったか覚えていないが、これまで新年勤行会で映像が流された記憶は無い。

 

内容も酷かった。8年間、表舞台に姿を見せない人物の12年前の映像を使いながら、「本年の勝利」「幸せな1年」を訴えられてもどこに説得力があるだろうか。池田名誉会長の映像以外に創価学会に残されたコンテンツが無いことを、私みたいな外れた人物でなくとも感じ取るだろう。

 

だいたい勝利って何だろう。選挙、地方選に関しては勝ち戦しかしない(勝てる場所にしか立候補させない)くせに、何度も勝利したはずなのに、地方の会員は幸せになりましたか?どこに勝利がありました?

 

国政?足掛け15年間以上、政権与党に参加してどこか豊かになりました?1999年の創価学会創価学会員の方が元気だったと思いますよ。この国も、国民も。

 

4月の地方選に向けて議員は会場内で笑顔を振りまきながら頭を下げていた。確かに、あの人にとっては死活問題だろう。あの人の家族はまだマシな方だ。地方議員の家族で酷い場所はもっと沢山ある。

 

参加者もどこか元気がなかった。会場全体が疲れていたように感じた。

 

創価学会万歳」の三唱が虚しく響いた。昔、私が子供だった頃に参加した新年勤行会はもっと迫力があったと思う。「正月が来たな」と思える特別感があった。高齢者にも元気な人が多かった。

 

会合が終われば皆さっさと帰っていく。「私語は控えて下さい」の注意事項は確かにあったが、あまりに淡白じゃないか。役職なし会員同士の会話って無いものなのか。

 

付き合いで嫌々、偵察がてら参加した私みたいな捻くれ者がいる一方、自身の素直な感性を発露したが故に活動停止、役職はく奪、場合によっては除名と、参加したくても会合に参加できない人がいる。惨いとしか言えない。

 

獅子は獅子でもイノシシ。老いて浮腫んだイノシシが、崖を落ちていく。

 

創価学会と自民党(1990年代を簡潔に)

今回は創価学会自民党について記事にしたいと思います。

 

尚、私は政治記者でもその筋の専門家でもございません。その点ご了承の上で、以下の文章をお読みください。まずは基本的なことをおさらいします。

 

創価学会は言論問題以降、自民党との距離を締め、またアメリカの存在を意識し始めたのか、創価学会にとってクリティカルな話題である安全保障問題への態度を1970年代後半より変化させ始めます。

 

1977年の二枚舌(公明党安全保障政策の変遷-前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長の一存に非ず(公明党安全保障政策の変遷-後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

在日米軍基地総点検など、安全保障問題に関して急進的であった創価学会が方向転換し、自民党との距離を縮めた1970年代ですが、その一方で、社公民路戦と言われるように野党との連携にも対応していました。1970年代から1980年代の創価学会は、自民党と他野党との間を上手く泳いでいた(好意的に見れば是々非々だった)と言えます。

 

それが大きく変化するのは1993年の細川内閣成立(非自民・非共産政権)になるのですが、その手前、消費税導入問題(1989年に導入)辺りから既に自民党サイドとひと悶着あったようです。この時期の混乱に関しては、矢野絢也公明党委員長が著書の中で簡単に触れています。

 

創価学会の税務調査問題と消費税導入、公明党創価学会内部の指揮系統の複雑さ、池田名誉会長の影響力(消費税導入を公明党の頭越しに自民党に了承したと矢野氏は記載)、そして宗創問題。1990年前後とはバブル景気の陰に隠れ、数知れるぬ暗闘があったと推測できます(1992年のPKO法案成立も大きなテーマでした)。

 

自民党内部(竹下派)の混乱、公明党の裏切り(税務調査問題で世話になった)、小沢一郎氏の活躍などで自民党結党以来はじめて非自民党政権が成立した1993年。この時期の創価学会と言えば第二次宗創問題の火中でした。

 

政治の世界も大混乱。細川内閣は短命に終わり(1年もたなかった)、その後誕生した羽田内閣は更に短命で倒れます(2ヵ月!)。

 

最終的には1994年6月30日に自民党社会党(+新党さきがけ)が連立して村山内閣が誕生するわけですが、翌年1995年の参議院選挙で投票率45%前後(戦後の国政選挙で最低の投票率)と、これまでの政敵同士の連立は日本中を呆れさせました。

 

1994年12月、新進党が結党されます。これは創価学会にとっても大きな転換点……になるはずでした。様々な勢力が結集して公明党も解党して結成された新進党。当時の創価学会(特に現場会員)は宗創問題に政治混乱にと鉄火場もいいところだったでしょう。

 

新進党は内部統制の悪さから1996年の選挙に敗れ1997年に解党、公明党も復活するわけですが(その2年後には自自公連立政権の誕生)、この期間、自民党創価学会四月会問題で大いに喧嘩します。細川内閣成立以降、自民党との対決を(表向きには)明確にした創価学会は宗創問題の混乱もあって週刊誌を中心に多大なパッシングを受けました。

 

1995年にオウム真理教地下鉄サリン事件を引き起こし、日本社会全体が宗教団体に批判的になっていたこともあり、宗教法人法の改正、秋谷会長(当時)の国会参考人招致と、創価学会の置かれた状況は、オールエネミー・フルスケールカオスという状態でした。

 

次に、創価学会公明党の関係を簡潔に振り返ります。

 

1970年代から、池田名誉会長、創価学会および公明党が必ずしも一枚岩ではなかったことは外交公電より明らかです。

 

池田会長と公明党の不一致(1975年、竹入公明党委員長の池田会長批判) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長は公明党の方向性に不満を抱いていた(1975年、創共協定に関連する外交公電より) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

不明瞭な意思決定機構(公明党の安全保障政策の変遷-番外編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

創共協定が池田会長(当時)の独断で学会執行部や公明党の頭越しに進められるなど、池田会長、創価学会公明党がある程度独立して機能して(牽制しあって)いたことは事実です。

  

池田名誉会長を含め、創価学会公明党の持つチャンネルにそれぞれ多様性があったことを示唆していると思います。組織運営の効率は悪く、未来へのグランドストラテジーが学会・公明党の双方に存在したかはかなり疑わしいですが、創価学会の傘下に公明党ががっちり組み込まれている現在の状態とは異なっていたと言えるでしょう。

 

竹入義勝氏、矢絢也野氏(多方面にパイプ)、石田幸四郎氏、市川雄一氏(一・一ライン)、草川昭三氏、藤井富雄氏(都議会公明のドン)等。学会側では秋谷元会長、山崎尚見氏(竹下総理に近い)、八尋頼雄氏(米国大使館とも付き合いアリ)、西口良三氏(関西のビックボス)、竹岡誠治氏(野中広務氏とコネクションがあった……竹岡光城青年部長の父親でもある)など。あまり表に出ませんが、広報室関係の方(西口浩氏)や野崎勲氏にも政治的役割があったと思います。

 

細川内閣成立から自公連立政権成立(正確には自自公)までの間、自民党内部の派閥争い同様(経世会とかYKKとかの時代ですね……宮澤内閣の不信任案可決やら小沢一郎氏も全盛期ですか)、創価学会内部においても様々な駆け引きが存在し、お互いの派閥(キーマン)が各々独自にコネクションを築いていました。自公連立政権誕生までの政治抗争を考えるとき、(世間や学会員が忘れがちな)創価学会公明党の指揮系統の複雑さに留意する必要があるでしょう。

 

竹入氏・矢野氏が政界を引退したのが1990年代前半。世代交代という意味でも混乱があったのかもしれません。

 

秋谷元会長はご存知の通り、票読みの秋谷と言われるくらい選挙に強い方でした。秋谷元会長が選挙に強かった理由は様々あると思います。竹入・矢野元公明党委員長のような多様なパイプを持つ公明党草創期の政治家と一緒に仕事をしてきたこと、同じ早稲田大学同窓の青木幹雄参議院幹事長とつながりがあったことなどが理由として当てはまるでしょう。

 

余談ですが、秋谷元会長と比較して原田稔氏は政治センスが乏しかったのか(原田会長は池田名誉会長のカバン持ちとして出世したと聞いています)、2007年参院選、2009年衆院選において公明党は大敗北。2009年末の本部幹部会において「原田、お前になってから一度も勝てないじゃないか」と名誉会長に叱責されたという話を、本会場出席者から伺いました。

 

つい最近亡くなられた、野中広務官房長官は自公連立政権を支えたキーマンであると思いますが (国税問題絡みで創価学会を落としたともいわれています)、この野中広務氏と関係が深かったのが竹岡光城青年部長の父親、竹岡誠治氏です。丁寧にもご本人が自身のHPで紹介しています。

 

竹岡誠治公式サイト sun-lotus.com|サポーターズヴォイス

 

秋谷元会長と竹岡誠治氏は余り仲が良くなかったという話があります(日蓮真筆本尊探しとその複製を勝手にやるくらいですから)。秋谷元会長は野中氏の国税問題に関連した追及を恐れたと言われていますが(なんでも学会機関紙に掲載されている美術品の目録を丹念に作成して矛盾をついてきたとか)、「誰か」が入れ知恵したのかもしれませんね。

 

池田名誉会長、創価学会公明党は「一糸乱れぬ」統制があるように思えて内情は複雑怪奇、それぞれが独自にパイプを持ち、関係組織と繋がっていた……これまでの創価学会自民党の関係を批評する上で考慮すべき重要なポイントだと思います。

 

全てが池田名誉会長の責任でも功績でもなく、池田名誉会長の意図や意思がどの程度反映されていたかは事案次第であり、真っ黒or清廉という単純な図式では説明できません。

 

末端会員と非学会員の多くは、池田名誉会長=創価学会公明党と考えがちですが、それは違います。その上、池田名誉会長、創価学会公明党のそれぞれに明確な目的や意思(作戦や算術)が常にあったとは限りません。この点を認識して批評しないと、池田名誉会長=創価学会公明党と捉えた上で矛盾の無い分かりやすい一本の物語を、黒か白かの、創作することになるでしょう。

 

個人的には、細川内閣参加→新進党→公明復活→自自公連立の大移動劇は、池田名誉会長のスタンドプレー、宗創問題の混乱、元来からの指揮系統の複雑さが関係各所を引っ掻き回した結果ではないかと考えています。

 

小沢一郎氏との接近はあったにせよ、その他の自民系議員との関係が切れたわけでもなく(だからこそ1993年からの6年間で寄りを戻せた)、幹部の意見が一致していたわけでも、池田名誉会長が常に明確なプランを保持していた訳でもないでしょう。

 

宗教紛争と政治闘争が爆発した1990年代前半、青年部の最高幹部に就いていたのが正木正明氏、谷川佳樹氏、佐藤浩氏の3名です。宗創問題が勃発した1990年末、全国青年部長は正木氏、全国男子部長は谷川氏でした。

 

歴代の全国学生部長、全国男子部長および全国青年部長をそれぞれ一部抜粋しますと、

 

浅見茂→忍田和彦→谷川佳樹→林総一郎→佐藤浩→杉山保

太田昭宏→浅見茂→忍田和彦→正木正明→谷川佳樹→佐藤浩→迫本秀樹→杉山保

太田昭宏→浅見茂→忍田和彦→正木正明→谷川佳樹→佐藤浩→迫本秀樹→杉山保

 

となります。ちなみにですが、原田稔(現会長)以降の男子部長または青年部長経験者は以下の通りです。

 

野崎勲(故人)、溝口隆三(?)、宮川清彦(?)、太田昭宏(政治家)、浅見茂(伊藤園問題)、忍田和彦(富士美理事長)、正木正明(左遷)、谷川佳樹(不人気&醜聞疑惑)、佐藤浩(不人気フィクサー

 

豊富な人材群ですね!

 

菅-佐藤ラインで話題の佐藤浩氏が青年部幹部として動いていたのは、丁度1990年代~2000年代前半(2003年か4年くらいまで佐藤氏が全国青年部長だったはずです)でして、四月会問題を経て自公連立が成立する時期です。

 

菅氏の初当選は1996年、新進党から出馬した公明系候補を破り当選しています。その3年後には自自公連立がスタートします。菅氏と佐藤氏は、大舞台におけるキャリア開始時期が被っていたと言えます。ちなみにですが、安倍総理が初めて選挙に出馬し当選したのは1993年です。

 

菅氏はもともと反創価学会キャンペーンを隠さない人物だったそうですが、自公連立政権誕生以降、表立って学会批判は行っていません。菅氏は1996年の次の選挙(既に自公連立済み)において、神奈川創価学会四月会時代の総括をさせられたとのことで、創価学会批判に旨味が無いことを把握したのでしょう(本心はともかく)。

 

似た様な話として、福岡選挙区の山崎拓氏が自公連立下で選挙に出た際(2005年の補欠選に関連したエピソードと記憶しています)、九州創価学会幹部相手に「禊の儀式」があったと福岡出身の友人から聞いています。

 

有名大学出のエリートが、政治に無知な婦人部幹部の「あんたは創価学会批判してきただろう!反省したのか!」という罵声に耐え、平身低頭「すいませんでした」と、言えるかどうかが大事なのですね。

 

まぁ当時の自民党の大将、橋本総理自身が「ケジメ」をつけさせられたのですから、下々の自民党議員は党の方針に従っただけなのかもしれません。

 

四月会問題が激しかった頃、橋本総理本人が八王子駅前における演説で「八王子を創価学会の街にしてしまっていいんですか!」とぶち上げてしまい、多数の自民党党員と八王子男子部員がもみあいになったと、八王子在住者から伺ったことがあります(それが今では萩生田-東村の仲……)。橋本総理がまず「手本」を見せる必要があったのでしょう。

 

佐藤氏に限りませんが、宗創問題当時の青年部を動かしていた幹部達は「対宗門」「対山崎正友」「対共産」など複数の観点から、各種重要情報に触れる機会が幾度もあっただろうと私は推測しています。この対外情報収集という点で活躍したのが、北林芳典氏です。

 

北林氏は前述の竹岡誠治氏と懇意であり(竹岡誠治氏が北林氏の書籍にも出てきますし)、山崎正友氏の「訓練」を受けた戦友でもあります(この辺の話は長くなるので割愛します)。

 

その様な状況下にあって、佐藤氏に限らず、正木氏も谷川氏も、本人が望んだかどうかは別にして、政治的な情報に触れる(場合によっては顔合わせする)機会がそれなりにあっただろうと推測します。

 

様々な混乱を乗り越え1999年に成立した自自公連立政権。以前との違いは何でしょう。

 

創価学会自民党のチャンネル・パイプが一部に集約されてしまったことが大きな違いであると、私は考えています。この20年程でお互いの重鎮が引退してしまい(あるいは亡くなってしまい)、創価学会自民党のパイプに以前ほどの多様性が存在していません。

 

かつての創価学会自民党は複数のチャンネルで繋がった、多様性のある(効率の悪い)関係でした。それが効率の良い(ほぼ同時に排他的を意味する)関係になってしまったのではないか。

 

まず何より池田名誉会長がいません。矢野元公明党委員長はとうに引退していますし、秋谷会長世代もかなりの高齢です。今の公明党の議員に、創価学会を無視して勝手に顔を広げられる人物はいないでしょう(むしろ秘書の方が?)。

 

自民党側においても、参院のドンこと青木幹雄氏は引退(現在84歳)、自公政権誕生のキーマン野中広務氏は死去、YKKも引退or死去。創価学会と独自にやり取りできる方として、二階俊博氏が残っていますかね(79歳ですが……)。

 

今年も創価学会自民党の関係が様々注目されることになるかと思います。創価学会VS自民党有権者として体験した世代は最も若くて40歳程度。そこから下の世代は自公連立がデフォルトの世代です。今年選挙権を持つ青年層は、生まれた時には自公連立政権が成立していました。

 

創価学会自民党に、あるいは連立政権が掲げる政策にどの様な評価を下すにせよ、彼等が、そして支持者が歩んできた歴史を冷静に評価する必要があると思います。

振り回された沖縄公明党&沖縄創価学会員(1969年の公文書に見る本土公明党の沖縄干渉)

沖縄知事選の話題がにわかに増してきました。沖縄公明党に関して、興味深い資料を見つけたので紹介します。

 

今回紹介するのは、CIAが1969年に作成した極東アジアの情報分析資料です。何度か言及していますが、CIAは本質的には情報分析機関です。工作活動以上に、各国地域の正確な情報解析が仕事です。

 

オリジナルの文章は以下のリンク先にあります。アジア時事情報の1つとして、沖縄公明党(当時は公明会)に関する記載があります。ドメインからわかりますように、アメリカ政府機関、正真正銘CIAの公式文章です。こういった文章群を時間と共に公開できるのがアメリカの強さでしょう(記録を抹消する組織に未来はない……)。

 

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https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/CIA-RDP79T00975A014700110001-6.pdf

 

短い文章ですので全文の訳を掲載します。

 

Okinawa:

 

Komeikai, the local arm of Japan's activist Komeito party, is about to campaign more aggressively against US bases on Okinawa.

(公明会‐日本の政治活動家組織である公明党の沖縄組織‐は、沖縄の米軍基地に対する組織運動をより活発にしようとしている)

*1969年当時、沖縄はまだ日本に復帰していません。

 

Komeikai is readying a report intended to focus popular dissatisfaction on hazards to public welfare created by US bases on Okinawa.

(公明会は、沖縄の米軍基地によって生み出された公共の福祉を害する危険性に対する民衆の不満に焦点をあてることを目的にした調査報告書を準備している)

 

The survey, according to Komeito officials, will demand a sizable reduction in the number of US installations in line with Komeito's policy calling for gradual dissolution of the US-Japan mutual security treaty.

(公明党当局の言うところでは、調査報告書は公明党政治的主張である日米安全保障条約の段階的撤廃に沿って、米軍施設数の削減を要求するだろう)

 

Komeito officials have requested help from the US Embassy in Tokyo in arranging a visit by a party mission to Okinawa ostensibly to persuade the Komeikai to modify some "rather provocative and questionable" sections of the report.

(公明党当局は「報告書における幾分挑発的で問題のあるいくつかのセクションを調整するために公明会を説得する」という触れ込みで、東京の米国大使館に党使節団の沖縄訪問の手配を助けるよう要求した)

 

Komeito scored a major propaganda coup last year with a detailed study of the US base structure in Japan.

(公明党は昨年、在日米軍基地の構成に関する詳細な調査報告の大規模宣伝工作戦略(プロパガンダ)に成功した)

 

Rather than toning down the Komeikai report, Komeito is more likely to want it to achieve a similar splash.

(公明党は、公明会の報告を和らげるよりもむしろ、公明会の報告を昨年公明党が成功したような派手な記事にしたがっているきらいがある)

 

The Komeito study received extensive media coverage, prompting considerable criticism of the Sato government for failing to take the initiative in representing the people's interests.

(公明党の調査報告は広範なマスコミ報道を経験し、佐藤栄作政府は率先して民衆の利害を指摘することに失敗したという相当な批判を促した)

 

The Komeikai, currently a semi-autonomous affiliate the Japan-based Komeito, reportedly will become a chapter of Komeito later this month.

(伝え聞くところでは、現在公明会は日本を拠点とする公明党の半自治支部であるが、今月中に公明党の1支部になるだろう)

 

In the past Komeikai has tended to be more conservative than its parent organization, particularly on the base issue since many of its members are employed on US bases.

(従来の公明会は基地問題に関して、彼等の構成員の多くが米軍基地で雇用されているという理由から、親組織(公明党)よりも保守的になる傾向があった)

 

It now may be under greater pressure to voice more outspoken opposition as it comes under tighter control of Komeito.

(公明党の厳格な管理下になるにつれ、公明会は今、(米軍基地問題に対して)より辛辣な反対意見を発言するよう強い圧力をかけられているのだろう)

  

驚きました。私は当初、沖縄公明党創価学会は初めから基地反対一本で固まっていたものだと考えていましたが、それは誤りだったようです。

 

基地問題で革新系に近い沖縄公明党(公明会)と、ラディカルな政策を掲げつつも保守陣営とも連携したい……しかし選挙と野党の手前大きな声は出せないという矛盾を抱えた本土公明党の単純な駆け引きだと考えていました。

 

確かに、1968年の行政主席選挙に関連した公文書の中において、「沖縄創価学会員-その多くは米軍に雇用されており、また沖縄自由民主党の保守候補を支持している(好感を持っている)-」という記述がありました。

 

また、矢野絢也書記長(当時)も「沖縄創価学会員は沖縄自由民主党の保守候補に好感を持っている」という発言(恐らくは非公式発言)を残しています。

hasu-no-rakuin.hatenablog.com

 

私は矢野書記長の発言は本土公明党の本音であり、沖縄公明党の考えとは違うと短絡的に考えていました。実際は、沖縄公明党(当時は公明会)は微妙な立場に立たされていたのでしょう。

 

今回及び以前紹介した文章を複合的に考えると、以下のような構図になるかと思います。 

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地元組織として複雑な事情を抱える沖縄公明党、選挙都合でラディカルな安全保障政策を持ち込んだ本土公明党(それも途中で撤回する……1977年時点でその兆候が確認されている)。

 

当時は、本土公明党の方が「上辺は」革新系だった。本土公明党の選挙都合に振り回せれ、沖縄が本土復帰に向かうにつれ、本土公明党の管理下に置かれるようになった沖縄公明党(公明会)……と支持者である沖縄創価学会員。

 

名護市長選で見せたように、本土創価学会の沖縄介入です。それは1968-1969年当時すでに存在していたと。

hasu-no-rakuin.hatenablog.com

その主張は現在とは逆で、ラディカルな革新系の主張に近い本土公明党保守系候補に好意を持つ沖縄公明党(もちろん基地問題に対応したい部分はあったでしょう)。

 

ところが沖縄の本土復帰後は、公明党本部と創価学会の方向転換により、積極的に保守系政党に近づきたい公明党本部、複雑な利害関係を持ちながらも平和問題の顔として取り上げられ、革新系候補に近い沖縄公明党(沖縄創価学会)とカオスな状況に変貌していく……ということでしょうか。

   

自身の雇用問題を抱えながら、1969年に「沖縄米軍基地の実態調査―米軍基地の総点検」を出版し不要・遊休基地の存在を主張しなければならなかった沖縄公明党(公明会)とその支持者である沖縄創価学会員。現地では葛藤があったことと推測されます。なにせ、自分達の雇用先を減らせと言っているわけですから……

 

今度の沖縄県知事選で、公明党は与党系候補に推薦を出しました。50年前は本土公明党のラディカルな政策・選挙都合で、今回は本土公明党の保身かつ与党的都合で、沖縄公明党に干渉しています。

 

恐ろしいことに、具体的な政策方針は大きく反対方向に変わりましたが、沖縄に対する干渉・介入・隷属体質はまるで変っていません。

 

最終的には沖縄公明党(と支持者である沖縄創価学会員)が個々に判断してきたことですが、公明党創価学会は沖縄に対して50年間何をやってきたのだろうと嘆かわしく思います。

私は蓮の落胤である

本記事で100回目の投稿となります。記念の100回目ということで、自分自身のことを少しだけ話そうと思います。

 

私はブログ記事を書く上で、なるべく理性的かつ客観的な文章になるよう努めてきたつもりです(一部のジョーク記事と雑感を除けば)。今回は私自身のことを書くということで、感情的かつ多少キツイ表現を含むことになると思います。文調もラフなものになります。ご了承ください。

  

 

私は父方・母方の両祖父母共に創価学会員の家に生まれた3世会員である。父母は2世会員。父方・母方、両家共に昭和20年代後半に入会。戦後間もない頃からの、祖父母の代からの活動家一家に生を受けた私は……まぁ敗戦処理で登板したようなものかな。

 

両家とも経済的に余裕のない中で学会活動に明け暮れ(特に父方)、地域の活動拠点として機能し、家族はまともに機能しなかった。

 

父方の祖父母は性格的に苛烈かつ強情で、昔の学会員の典型例と言えるだろう。祖母と義父(私から見た曾祖父)との関係が悪く、家を飛び出した先での入会だったそうだ。母方一家は、酒乱の夫(私から見た祖父)に困った祖母が、様々な宗教遍歴の末、入会したと聞いている。

 

草創の世代、小説人間革命の世界が私のルーツだ。小説人間革命の世界と違うのは、我が家は報われなかったという点、また人間革命が起きなかったという点にある。まぁ事実は小説よりも㋖なり、じゃなかった奇なり。

 

父方一家には娘(私から見た伯母)がいるが、30代で勘当されている。両親 (私から見た祖父母) との関係が上手くいかなかったらしい。そりゃ昭和一桁生まれの活動狂いの家庭に生まれれば無理だ。ちなみに独身。今年で68歳くらいになるはずだが、この世代の女性で独身は珍しいだろう。一応今も生きているらしいが、私は話したことがない。父とも絶縁していて、父が伯母と(つまり父にとっての姉と)まともに連絡をしたのは、祖父の葬儀の時くらいだろう。

 

母には弟(私にとっての叔父)がいる。母と叔父との仲は良くない。叔父夫婦には子供がいない。不妊治療を行っていたそうだが実らず、母方の家系はここで途絶える。子供の有無で人生の価値が決まるとは思わないが、当人たちが望んでいない結果になったのは事実だ。

 

私の母は、私と兄弟を本当によく殴った。蹴り飛ばされたこともよくあった。父がそれを止めることはなかった。創価の世界では活動家で信頼されていたようだが、酷い人達だった。泣いて横たわっているにも拘らず蹴飛ばされたことを今でも思い出す。私の兄弟は殴られた痛みで体育の授業を休んだこともある。毒親、虐待の家庭だった。物心両面の暴力があった。

 

父は酷いマザコンで、母はそれが気に食わなかったようだ。嫁姑のトラブルもあったらしい。夫(私から見た父)が味方してくれない、家の中が居心地のよくない母にとって、活動した分だけ褒めてくれる創価の組織は気分が良かったのだろう。家族には全員から嫌われている。

 

創価学会はやたら「母」を称賛するが、宗教狂いの専業主婦を量産しただけなのじゃないかと思うことがある。創価学会曰く、母は太陽らしい。太陽、そうね、少し離れたところにあると(家庭外かつ地区内とか)ありがたみを感じるのかもね。あまり近いとガンマ線(信心)で人を殺す。それが太陽。

 

酒乱の父親に殴られて育った女にまともな子育てが出来るとは思わないが、それでも宗教活動がなければもう少し、最低限あいさつくらいはしてやる関係になれただろう。

 

父も母と同様、まともな情操教育を受けていない。昭和一桁の活動家の両親から、罰と義務を強要され生きてきた。活動する癖に父親から良い体験談を聞いたことがない。愚痴はよく聞いたけれど。

 

今更学会から離れられないのだろう。失敗と負けを認めることができないのだ。適応障害で休職したこともある父だが、一向に報われることのない活動をやめることはない。哀れな話だ。哀れな話なのだが、伴侶のキチガイ御信心を止めることなく、家族を道ずれにしたのだから同情はない。

 

我が家は経済的にとりわけ裕福ではなかったが、無駄極まりない財務や新聞の多部購読があった。未来部なぞとうにいなくなった後も、未来部向けの新聞を購読していた。「家族のための財務」と両親は言ってきたが、家族が幸せになることはなった。そもそも、家族というシステムに魅力を感じる人生にならなかった。母は父に内緒で数百万円の財務を勝手に行ったことがある。父母で酷い喧嘩になった。馬鹿げた話だ。

 

私はイカレタ両親のもと、小学校に上がると同時に朝晩の勤行をしないと飯も出ないような生活を送った。朝勤をしないと学校に行けず、夜勤をしなければ風呂に入れず。「罰が当たるぞ」と呪詛のようにいわれ、信心とは「やらなければいけない」ことだった。と言うよりも、生きること=やらなければならない、義務であった。

 

疑問を感じても、何か考えることがあっても、罰と義務が私を離さなかった。創価の家に生まれる以上の罰もないだろうと今は思う。理性を働かせて普遍化するならば、碌な情操教育を受けていない両親と思想を偏狭にさせうる宗教のコンビは最低だということになる。

 

あの両親のもとに生まれれば、創価の有無に関係なく、心地よい人生とは無縁な生活を送ることになるだろうが、創価学会あるいは宗教活動の存在は、状況をよりシビアなものにした。

 

父と母に何度も創価の現状や教義の不備、あるいはこれまでの不満を訴えたが、変わることはなかった。馬鹿は死ななければ治らないというが、死ななければ治らないのは狂気だ。彼等は死ぬまで変わらないだろう。

 

八王子含め、多くの学会員、創価家族を見てきたが、素直な感覚、自らの人生を持てる環境に生まれた者はまだマシな待遇だったのだろうと思う。

 

まぁ、創価の組織に身を置く愛する近親者と自身の信仰観・組織観との間で悩む人は、それはそれで非常に辛いだろうと思う。切りたくない絆も、譲れぬ感性もあると。素直な感覚がある人ほど衝突したとき問題を激化させやすい。そういうケースも観た。

 

創価の家に生まれて気分の悪い人生を歩んで……そういう方は中々表に出てこられない。創価学会の繁栄、創価学会の活動家の満足感とは、多くの犠牲(本人の望まぬ犠牲)の上に成り立っているのだと、私は知った。

 

ある後輩は15年間引きこもりの兄を抱えて悩んでいた。鬱から休学寸前、役職を追われた後輩もいた。高等部時代からの活動家だったが、組織との関係、自分の人生に悩み、大学に来られなくなった後輩もいた。全員、私が直接受け持った後輩だ。

 

彼等は皆、公明党議員の子息だった。学会組織は彼等に何もできなかった。否、反対に追い詰めた。私は似た様な境遇だったから対応できた。彼等が無事に卒業出来て良かった。すごい疲れたが。

 

 

私は個人的な興味・関心から、教義、仏教、あるいは宗教全般について調べたりするが、それらが本当に厳しい環境においては時に無力であることを知っている。

 

強めの例え話をする。味覚障害者が味を楽しめないように、視覚障害者が景色を楽しめないように、ある種のファクターがあると信仰を楽しめない(あるいは信仰で変われない)のだろう。逆は必ずしも真ならず。信仰を楽しめない人に問題があるとは決して言わない。知性や教養を楽しめない連中が活動を楽しんだりするけどね。

 

日蓮の教えは、法華経は、あるいはゴーダマの残したものは、素晴らしいものかもしれない。高貴な蓮だ。だが残念なことに高貴な蓮は、時を経るにしたがって幾人かの落とし子をもうけた。各種仏教団体、日蓮系団体。それ等が残した教義経典。

 

日蓮正宗創価学会。彼等は日蓮のあるいは法華経の落とし子だ。1等目立つ出世頭で状況によっては慈悲深かったかもしれないが、最も下劣で低俗でもあったろう。

 

そんな連中のとりわけ酷い場所に生まれ育った。私は蓮の落胤である。

日蓮は何を残したかったのか

日蓮は何を残したかったのか。

前々から記事にしようと思っていながら、中々上手く文章に出来ずにいました。

 

断っておくと、私は日蓮遺文に特段詳しくありません。今はSNS含めインターネット上で日蓮遺文に関する議論・有益情報に触れることが出来ます。私より日蓮遺文に詳しい方は沢山おられます。

 

以前ならば、一部の専門家及び専門書やコア情報に触れるチャンスに恵まれた方に限定されていたコンテンツに、一般人(一般信徒)がアクセスできるようになりました。

 

インターネットが無かった時代にあっても、自らの意思で書物にあたれば知識として吸収することは出来たでしょうが、特定教団の情報遮断や教団間のエモーショナルな紛争および教団内部の猛烈な宗教活動が弊害となり、文献学的な客観的批判に耐えうる主張との接触を困難なものにしていました。

 

さて、本題です。日蓮はどのような文章を残したかという問いかけには、日蓮真筆遺文および直弟子の写本レベルまでを一応の範囲として説明できるはずです。信頼できる文章群を基に、日蓮が残したもの、日蓮の発言(書き残したこと)を追いかけることは出来ます。

 

日蓮の発言の真意となると、日蓮が意図的に嘘をついていないということ(日蓮の頭の中と書き残された書面が一致している)を前提条件にしても、推論・推測を含むことになるでしょう。

 

推論・推測を含むにしても、信頼に足る文章群からロジックを構築することは出来ます。日蓮遺文に限りませんが、残されている資料から妥当・合理的と思われる説を構築することは出来ます。

 

東洋哲学研究所の小林正博氏によると、日蓮が書き残したと言われる文章群の中で、その存在がある程度保証されているものは、だいたい60%程度だそうです。

 

http://www.totetu.org/assets/media/paper/k018_258.pdf

日蓮文書の研究(1)」 小林正博

 

その60%の中で、敢えて「1番」を決めるとしましょう。何を基準とするかがまず議論されるでしょうし、そもそも「御書」に順番をつけることに嫌悪を感じる人もいるでしょう。

 

記載内容の「重要さ」から「1番」を決めるとなると、色々と段取りが必要です。日蓮遺文は勿論、天台からそれ以前、仏教全般の知識が必要になります。仏教全般の理解だけでなく、「日蓮がどう理解していたか」を理解する必要があります。

 

特定教団にとっての「重要さ」に拘束される人もいるでしょう。もっとも、特定教団に重要とされる文章が、信頼に足る60%に入っているかは気になりますが……

 

おそらく、観心本尊抄(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)を「1番」とするのが1つポピュラーな論調ではないかと思います(既に何人もの方が指摘していますね)。

 

私が興味深いと思ったのは「観心本尊抄送状」、観心本尊抄の送り状です。真筆は観心本尊抄とセットで中山法華寺に存在します。

 

知っている方にとっては当たり前かもしれませんが、観心本尊抄送状には以下のように記載されています。

 

「設い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ」

 

3~4人で集まって読んではいけない。大勢で読み合うことを禁ずると。

 

上記、観心本尊抄送状が示すように、日蓮は文章ごとに読み手の範囲を意識し、計算していたと推測できます。

 

幕府の役人を通じて北条氏に提出された立正安国論日蓮は、立正安国論が複数の人物に読まれることを予期したでしょうし、場合よっては期待したかもしれません。

 

日蓮日蓮死後の弘教、つまり自分が死んだ後も自己の主張が継承されていくという期待or意図がなければ、観心本尊抄は、極少数の「当時の信徒」だけに読まれることを意図された文章になります。

 

日蓮日蓮死後の弘教計画(あるいはその意思・意図)があったならば、おそらく後代の人間に読まれることを主に意図していたでしょう。

 

観心本尊抄送状には以下の記述もあります。

 

「此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す」「仏滅後二千二百二十余年未だ此の書の心有らず、国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す」

 

もし日蓮が、死後の法門継承を計画・意図していなかったのならば、自らの「大事」をごく少数の人に告白し、いずれは文章ごと「大事」が消えてなくなると考えていたことになります。

 

一応の可能性として、自分の死後、信徒および自己の主張がどうなるか、深く考えていなかった可能性もあります。

 

ここでは、日蓮が死後の法門継承を計画・意図していたかどうかは検討しません。また、内容からの観心本尊抄の重要性にも触れません。私が主張したいのは、日蓮は読み手の範囲を計算していたという点です。

 

日蓮遺文、あるいは教団によっては御書と呼ばれる文章群には、日蓮の筆かどうかという真偽、信頼性の問題があります。

 

信頼性に足る文章に限定した上で、その中身を正しく理解する必要もあります。その為には、仏教全般の知識が必要になってきます。

 

そして信頼性と正しい理解という課題と共に、文章がどの程度の範囲(時間および空間的範囲)で読まれることを日蓮は想定したいたかというテーマがあると思います。

 

特定門下に当てた手紙を数百年後の人間が読むことを想定していたのか。読まれることは想定していたかもしれないが、それが教義の「大事」に肩を並べると考えていたか。信仰や宗教とは関係なく、一激励文ではなかったか。

 

日蓮が書き残しているから」と残された文章を金科玉条の如く振りますのはどうなのか。自宗あるいは自らの立場を利するために用いるのは論外として、日蓮が意図した範囲外で適応していないか。

 

信頼性のある文章群を読んで、日蓮が人間としてどう振舞っていたか、それを知ってどのように感じるか自由かと思います。

 

ただ、「何が残ったのか」ということと「何を残したかったのか」ということを区別する必要があるかと思います。