蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

池田会長の一存に非ず(公明党安全保障政策の変遷-後編)

前回に続き公明党の安全保障政策の変化について、アメリカ外交公電を引用しながら考察します。今回は後編となります。

 

今回は、矢野書記長(当時)訪米後の公明党の動向に関する主要公電2報を軸に話を展開していきます。2報共、機密区分はConfidentialです。アメリカ公文書館のHPから誰でも閲覧できます。

 

 

①MODERATE PARTIES PLEDGE SUPPORT OF US-JAPAN RELATIONS

(穏和政党日米関係の支持を保証-1977年12月13~15日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=294207&dt=2532&dl=1629

 

②CGP MOVES TOWARD REALISM

(公明党現実主義へ動く-1978年1月20日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=16414&dt=2694&dl=2009

 

 

それぞれの公電に濃い内容がギッシリ詰まっていますが、今回は安全保障関連に関連する部分で私が興味深いと思った部分を抜粋して紹介します。

 

 

①の外交公電では、日本の穏和政党(公明党民社党)が、自民党過半数を失い、連立政権が樹立した場合においても、安全保障条約を含め、現行日本政府の対米方針を大きく変更しないことをアメリカ側に保証していたことが記録されています。

 

At luncheon hosted by CGP chairman Takeiri Dec. 13, he and SECGEN Yano stressed that even if LDP lost its majority and coalition government were formed, prospects were that security treaty would be tetained(恐らくretainedの誤植) intact.

(12月13日の竹入公明党委員長主催の昼食会において、竹入委員長と矢野書記長は、自民党過半数を失い連立政権が樹立した場合においても、安全保障条約には手をつけず保持することを強調した)

 

Takeiri said that CGP regards relationship with US as heart of Japanese foreign policy, and Yano noted he had made CGP's policy clear during his recent Washington visit.

(竹入委員長は、公明は米国との関係を日本における外交政策の中核であると考えていると話し、また矢野書記長は、公明党の政策を先日の訪米(ワシントンDC)中に明確なものにしたと言及した)

 

竹入委員長と矢野書記長は、自民党過半数を失い連立政権が樹立した時、つまり公明党の政策を実現するチャンスが近づいた時においても、安全保障条約には手をつけず保持することをアメリカ側に保証していた。完全なる二枚舌です

 

 

②の外交公電は年が明けて1978年、公明党第15回党大会における竹入委員長の発言にフォーカスして作成されたものです。

 

1978年の第15回党大会において、竹入委員長はそれまでの見解を変え、自衛隊日米安全保障条約を容認する見解を示しました。一方で、党基本方針の変更は行いませんでした(その理由も記載されています)。

 

まずは②の公電のSummary、まとめ部分からの抜粋です。

 

At clean government party (KOMEITO-CGP) convention Jan 11-13, chairman Takeiri attracted wide publicity by favoring acceptance of minimum self-defense forces necessary to insure territorial integrity and by suggesting caution in abrogating US-Japan mutual defense treaty.

(1月11-13日に開催された公明党党大会において、竹入委員長は、領土の保全を保証するために必要な最小限度の自衛隊の容認に賛成し、また日米安全保障条約の破棄に警戒を示し、幅広い注目を引き付けた)

  

次に、党基本方針の変更が行われなかった理由が記載されている部分を紹介します。

 

Explaining background to EMBOFF, CGP international bureau chief Kuroyanagi stated that top party leaders were all agreed on need to move in more realistic direction, but had failed to persuade majority of CGP central executive council.

 

(大使館側にことの背景を説明する時、公明党国際部事務局長の黒柳は「党の上位指導層は全員より現実路線へ動く必要があることに同意したが、党中央執行委員会の大部分の説得に失敗した」と述べた)

 

Opponents on council were mainly concerned about perceived election risks of new posture on self-defense forces and MST.

(中央執行委員会の反対者達は、自衛隊と日米安全保障に関する新しい立ち位置という選挙リスクを主に気に掛けた)

 

Having failed to achieve approval necessary to change party policy, formally, Kuroyanagi continued, leadership decided to put new policy positions into chairman's speech and focus media attention on them.

(「公式に、党の政策変更承認を得ることには失敗したが、上位指導者層は新しい政策方針を竹入委員長のスピーチに組み込み、スピーチに対するメディアの動向を注視することに決定した」と黒柳は続けて語った)

 

上記部分は公明党の安全保障政策の変更を考える上で非常に興味深い内容です。1977年前後、公明党の上位指導層と中央執行委員会のメンバーは、安全保障政策に関してコンセンサスを形成出来ていなかったと

 

 

②の公電内でアメリカ側は、竹入委員長の見解変更は矢野書記長の訪米に大きく影響を受けた結果であると判断しています。

 

CGP leadership's willingness to take new policy steps, despite substantial intra-party opposition, was doubtless influenced by successful visit of Yano mission to Washington (and CINCPAC) last October.

(公明党指導者の新しい政策方針への前進意欲(相当な党内の反対をよそにした)は、昨年10月に行われた矢野委員長のワシントンと太平洋軍最高司令官への訪問に恐らく影響されている)……10月でなく11月の訪米です。恐らく元文章のミスです。

 

また公明党側も他の公電において、公明党の渡一郎議員(矢野書記長に同伴して訪米した)が、矢野書記長の訪米が公明党の安全保障政策転換のターニングポイントになった旨をアメリカ側に通達しています。以下その部分を抜粋紹介します。

 

KOMEITO VIEWS ON SECURITY TREATY AND US-KOREA RELATIONS

(公明党の安全保障条約と米韓関係に関する見解-1978年2月3日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=27733&dt=2694&dl=2009

 

In conversations this week with EMBOFFS, clean government party (Komeito) lower house member Ichiro Watanabe, who accompanied Komeito SECGEN Yano to US last fall, said that Komeito regarded visit not only as extraordinarily successful, but as turning point in its view of US-Japan security relationship.

(今週の大使館との対談の中で、公明党衆議院議員の渡一郎は、‐昨秋、矢野書記長に同行して訪米した議員だが-、「公明党は(矢野使節団の)訪米を大成功と捉えただけでなく、日米の安全保障関係に対する見解のターニングポイントであると評価した」と述べた)

 

公明党の安全保障政策変更の転換点が矢野書記長の訪米にあることは、公明党・アメリカの両サイドが認めています。

 

 

 

続いて、以前から当ブログにおいて言及してきた「公明党の安全保障政策変更に池田会長はどの程度関与したか、公明党の重要政策決定に池田会長は影響力を行使できたのか」を考察します。

 

前回紹介分を含め、外交公電から明らかになった公明党の安全保障政策の変遷に関する事実は以下5つです。

 

1.公明党の安全保障政策転換のキーマンは矢野書記長

2.アメリカ側は池田会長が矢野使節団の訪米を推進していると考えていた

3.矢野使節団に影響されて公明党指導層は政策方針変更に前向きになった

4.公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した

5.党の政策方針変更には失敗したが、竹入委員長のスピーチで言及した

 

2だけを考慮すると、公明党の二枚舌政策、安全保障政策の変更を主導した人物は池田会長ということになります。

 

しかしながら以前紹介したように、1975年の時点で池田会長は公明党をコントロールできていませんでした。

 

hasu-no-rakuin.hatenablog.com

 

竹入委員長は駄目でも矢野書記長はコントロール出来ていたという見方も出来ますが、その場合、「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」という事実をより複雑なものにします。

 

もし池田会長が公明党の政策決定にダイレクトに関わっていた場合、「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」という状況は、「党上位指導層(特に矢野書記長)は池田会長の影響下にあったが、その他党中央執行委員会の大多数の議員が池田会長の意向に反対した」ことを意味します。

 

これは公明党が根本的に池田会長の意向に反していたことを意味します。しかも、池田会長が安全保障政策の変更を願っていたにも関わらず、党中央執行委員会議員の多くが反対したことになります。

 

竹入委員長が池田会長と拗れていた状況下で、竹入委員長が池田会長の意向に沿う形で賛成した内容に、その他議員が池田会長の意向に反しNoを突き付けた……というストーリーは無理があります。

 

1975年以降に竹入委員長と池田会長が仲を取り戻した可能性、あるいは安全保障政策において見解の一致を見た可能性もあります。その場合は「党委員長と党創立者の意向にその他多数の議員が逆らった」ことになりますが、これは想定し辛い状況です*

 

以上考察すると「池田会長の一存で公明党の重要政策が決定されていたとは考え辛い」ことが判断できます**

 

公明党の安全保障政策の変更に対して、池田会長は最終的な決定力を示せていません。池田会長の意図が公明党に行き渡り、党を一枚岩にしていた訳でもありません

 

以前にも指摘しましたが「池田先生が作られた公明党、池田先生は公明党を支持している、池田先生と公明党の考えは一致している」という発想は間違いです

 

 

  

補足

名目上、創価学会公明党は独立した別の団体です。選挙活動のモチベーションが信仰基盤にある必要は特にありません。池田名誉会長に拘る必要もありません。誰もが好きなように、己のスタンスで政治に関わることが出来ます(それは信仰と矛盾しません)。また、選挙活動に関わらないというのも自由です。

 

紹介した公文書は様々興味深い内容です。より正確に内容知りたい方は、是非原文をお読みください。

 

 

*万が一、その様な状態であったとするならば、創価学会員の公明党支援は、二重の意味で破綻していたことを意味します。池田会長の平和主義が二枚舌であり、公明党議員の多くが池田会長の意向に反していたと。

  

**まるで影響力を行使していなかった(あるいは行使できなかった)とも考え辛いです。次の投稿では詳しい補足として少し穿った見方を提示したいと思います。

1977年の二枚舌(公明党安全保障政策の変遷-前編)

公明党の安全保障政策の変遷について、複数のアメリカ外交公電を引用しながら考察します。今回は前編となります。

 

公明党の安全保障政策が公的に変更されたのは1981年です。以下、公明党のHPより引用します。

 

公明党は1981年12月の党大会で、党のそれまでの安全保障・自衛隊政策を現実的に見直す安全保障政策を発表。日米安全保障条約の存続を容認するとともに、領土、領海、領空の領域保全に任務を限定した「合憲の自衛隊構想」を提起しました。”

https://www.komei.or.jp/news/detail/20140918_14951

 

政策変更が1981年ですので、変更の為の準備はそれ以前から始まっていたことになります。下準備がいつから始まっていたのか、誰が政策変更を提言したのか、不透明な部分がありますが、1977年の矢野絢也書記長(当時)の訪米が政策変更のターニングポイントであったことが、幾つかの外交公電から判明しました。

 

今回は、矢野書記長の訪米に関する主要公電3報を紹介します。機密区分は全てConfidentialです。3報共、アメリカ公文書館のHPから誰でも閲覧できます。

  

①CGP MISSION TO US                      

(公明党訪米使節団-1977年3月4日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=46620&dt=2532&dl=1629

 

②CLEAN GOVERNMENT PARTY VISIT TO U.S.

(公明党アメリカ訪問-1977年10月26日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=250191&dt=2532&dl=1629

 

③CGP SECGEN YANO WASHINGTON VISIT

(公明党矢野絢也書記長ワシントンDC訪問-1977年11月9日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=259765&dt=2532&dl=1629

 

 

それぞれ興味深い内容がギッシリ詰まっていますが、今回は安全保障政策関連に限定して掻い摘んで紹介します。

 

まず①の文章には、矢野書記長(と使節団)に対するアメリカ側の分析が記述されています。

 

He hopes to establish personal contacts, gain some impression about future directions of US foreign policy, and create broader and more accurate understanding of CGP among Americans.

(矢野書記長は、個人的なツテの確立、今後のアメリカ外交政策方針に関する印象の獲得、アメリカ人内部でのより広範で正確な公明党理解の創出を望んでいる)

 

Yano has been reported to have harbored anti-American bias in past, but sources close to him have told us that this is decidedly not case and that, if anything, he tends to be on conservative side of CGP.

(矢野書記長は過去に反米的偏見を抱いていたことが報告されているが、彼に近い筋が語ったところによれば、全く事実無根であり、どちらかといえば、矢野書記長は公明党における保守サイドに偏る傾向がある)

 

He is strong candidate to succeed chairman TAKEIRI, and is said to be close to DAISAKU IKEDA, president of CGP's principal support organization, SOKA GAKKAI, and who is believed to have hand in promoting YANO mission.

(矢野書記長は竹入委員長の有力な後継者であり、公明党の主要な支持母体である創価学会の会長で、今回の矢野使節団の推進を手助けしているとも信じられている池田大作氏に近い立場と言われている)

 

矢野書記長が池田会長(当時)に近い人物であり、矢野使節団の推進を池田会長が推進しているとアメリカ側が判断しているのは興味深い内容です。

  

問題となるのは、②③の公電です。

 

公明党が当時公的に主張していた安全保障政策が、“本心・本気”ではなかったことが記録されています

 

②の文章では以下の内容が記載されています。

CGP officials have privately assured us they desire no immediate change in current arrangement, while in public, party currently advocates replacement of MST by "treaty of friendship and non-aggression," but only after obtaining U.S. agreement through negotiations.

(公明党当局は、公的には、アメリカとの交渉を通して同意を得た後でのみ日米安全保障条約を友好条約と不可侵条約に置き換えると現在主張する一方で、現行協定の即時変更を望んでいないと (アメリカ側に) 非公式に断言している)

 

③の文章では以下の内容が記載されています。

CGP official line currently asserts U.S. bases will not be acceptable indefinitely, and calls for negotiations to replace security treaty with non-military treaty of friendship.

(現行の公明党公式方針は、在日米軍の基地を無期限に受け入れることは無いと主張し、安全保障条約を非軍事的友好条約へ置き換える為の交渉を要求している)

 

However, YANO has told EMBOFFS in private that he and his party favor maintaining treaty for present, and his recent public statements have moved closer to his private assertions.

(しかしながら、矢野書記長は、彼と公明党は現行の条約維持に賛成していることを非公式にアメリカ大使館に伝え、また彼の最近の公的な発言は、彼の個人的な主張に近づいている)

 

上記の通り、1977年の時点で公明党の安全保障政策が完全に二枚舌であったことが記録されています

 

公的には(つまり支持者である創価学会員には)、在日米軍基地の撤廃や日米安全保障政策の段階的廃止を訴える一方で、非公式の場では(支持者である創価学会員の知らない場所では)、日米安全保障条約の維持が本音であるとアメリカ大使館側に伝えていました

 

支持者への明確な裏切り行為です。

 

公明党が掲げていた平和主義の具体的な政策は、選挙目当てのパフォーマンス政策だったと批判されても仕方がないかもしれません。あるいは公明党が掲げていた平和主義そのものがアピールに過ぎなかったと。

 

「池田会長(当時)が矢野使節団を支援していると“信じている”」という記述も非常に興味深いです。これが池田会長の指示で行われていたとすれば、厳しい批判を受けることになるでしょう。

 

ただ以前紹介した通り、1975年の時点で竹入公明党委員長と池田会長は随分と意見を異にし、池田会長も公明党を完全にコントロールしていた訳ではありません。

 

後編ではこの辺り、安全保障政策の変更が誰の意図だったのかを含め考察したいと思います。

創価学会水泳選手権

あまり語られることはないですが、創価学会には泳ぎの達人が何人かいます。今日はその内の何人かを紹介したいと思います。

 

 

H理事長

ミスター茶坊主。東大閥、早稲田閥、創大閥に囲まれながら理事長にまで泳ぎ詰めた、流れを見切る達人(本人は明治大学卒)。福島某というゴマ泳ぎの達人が失脚するという運にも恵まれる。閉じた場所で武勇伝を流布するなどきめ細かいフォームが特徴。女子部の教学力の無さを叱ったりするが、公の場でディカッションするなどの行動は決してしない。「弱きをおどし強をおそる」を体現する男。創大入学式では教授陣の失笑を買いながら創立者の威光を利用して“感涙モノ”のスピーチを学生に披露する。声は良いらしい。「池田先生はね!」を多用する事が小さな会合における学生向けスピーチの特徴。本人の体験談を聞いたことが無い。

 

 

T主任副会長

輝かしい経歴を持つ。実績はそこまでない。人気は全くない。しかしながら“実力”をもって出世した、豪の達人。実態としては、A元会長一派にこき使われただけなのかもしれないが。何やら醜聞も多いが真偽は不明。真偽不明を幾つ都合よく解釈できるかで優劣が決まる石山系の特徴を体現しているのかもしれない。ただし教義の問題にはまるで関心がない。海外で泳ぐことも多いが、「SGIへの教義説明は翻訳者に任せればいい」という趣旨の発言を躊躇わずできる男。

 

 

S副会長

早稲田閥でありながら東大出のTと馬が合うのか、Tの親友。今はね。政海という汚泥にまみれた海を泳ぐのが得意。票読みのA元会長とは違う方面の政海に強い。疲れた時は、本来緊急用に設置されているセーフハウスで酔ミングするらしい。公明海域のスタッフから公認で嫌われている、信濃町不人気選挙公認候補。スタッフ曰く「あの人に関しては諦めている」「どうにもならない」。国会議員の秘書ですら惨状を付近に漏らすほど。

 

 

K主任副会長

創価大学1期生。直接的なエピソードを聞いた事はない。しかしながら、奥〇、〇田、田〇、〇吹、正木元理事長等の同性代、創価大学出身者から5年程遅れて副会長になっているにも拘らず、創価大学出身で主任副会長の任にある辺り、何らかの泳ぎの達人と見ていいだろう。ちなみに、Kと同じ年に副会長に任命された人物に、梶〇、寺〇がいる。梶〇氏は一時家族も連絡がつかなくなった(今は知らない)。寺〇氏は、ほぼ全ての役職を剥奪されている。やはり泳ぎの達人だろう。

 

 

M岡〇夫

大石寺とかいう小さな山では泳ぎ足らず、創価学海という狭いけど深い汚れがたまりやすい海に飛び込んできた。そこを拠点にもっと広い海を目指していたのかもしれない。循環競泳を批判したことで名を成した。山の歴史を公表したことで一定の功績はあるが、「海壇本尊の真偽」などの危険海域には近づかない。佐藤優なる政海、言論海を泳ぎ渡る“文化人”と「創価学海を語る」という対談集を出版している。「酷い場所なので組織の中を泳げないと死にます」で済む内容を一冊の本にできるあたり才能がある。教学関係者に言わせると「本当に泳ぐのがうまい」らしい。

 

 

K東哲研究員(某大学文学部教授)

実家が酒屋だったらしく、酔ミングの達人。酔ミング状態になると独演会になるらしい。「池田さんは教学ないからねー」みたいな発言のできる男。但し、酔ミングの席に限る。教学的な批判の大半をM田教授が引き受けてくれているおかげで、表立って批判される機会はあまりない。最近は日蓮宗と浄円寺で共泳(コモンズ)している。会員にはナイショ。院生時代の泳ぎ方とか書いてもいいけれど止めときます(若い時の石田次男氏の振る舞いを幾つか取り上げて、故人になってから死体蹴りの要領で全人格全人生を否定するような連中なら書くだろうね)。

つい最近、K研究員の酔ミング仲間、Y東哲研究員(某大学理工学部教授)がコンパでセクハラして保護者から通報されてトラブったけれど、何かコメントありますか?

 

 

Y元某大学学長

流体政治泳ぎの達人。元々、専門が生物系でなかったにも拘らず、(情報系・生物系の)工学部創設に合わせて生物系研究者(学会員)と共同研究を行い “論文共著者”として実績を稼ぎ、工学部創設時から生物工学科教授として赴任。生物工学科長、工学部長、副学長と順調に出世して最後は学長になる。生物工学科は後々、生命情報と環境共生に分裂する。教授陣の中が悪かったらしい。その為、両学科の仲も悪かった。Yは環境共生に所属。学会員の教員が環境共生に固まったこともあり、学内政治力は環境共生が上となる。研究者としての実績は生命が上と聞いた。Yは、工学系学科の始まりである生物系学科(生命情報)を「いずれ無くしても構わない」と当時の環境共生人気(受験志望者)と政治力を背景に考える。ところがどっこい、年を重ねるごとに環境共生なる学科の人気は右肩下がり、いずれ定員割れを起こすだろうことが予測されてしまう。環境共生の定員割れ予測が、強制創造でなくて矯正創造でもなくて共生創造理工学科なるものを創設する理由となった(工学部の理工学部への改組)。共生創造理工学科なる学科は、実質的には生命情報、環境共生が再合体したものである。僅か20年の間に分裂と融合を繰り返した訳だ。既に本人は泳ぎ切った後(定年)だったので影響なし。某大学理系を迷走させた一人かもしれない。

因みに、学長就任を前に、就任前祝いパーティーを開いて一部の教授から顰蹙を買った。更に因みにだが、理工学部を引き継ぎそうな人物は“ある有名人”のお孫さん。遺伝的に酔ミングの免許皆伝だが、溺れる(悪酔い)ことも多い。

 

 

補足

ジョーク記事なので泳ぎながら読んでください。

創価学会オリジナルの物語(中心は婦人部)

前回、前々回と、創価学会を物語としてとらえる記事を書きました。

 

その中で、創価学会は幾つかの恵まれた条件に囲まれて発展したこと、「仕事と家族」という「日本社会物語」を上手く会内に取り込み、心地よい「創価学会員物語」を構築・共有することが出来たことを述べました。

 

hasu-no-rakuin.hatenablog.com

hasu-no-rakuin.hatenablog.com

 

前述した内容は、創価学会が独自に抱えていた物語ではありません。戦後日本社会に関連して紡いできた物語であり、戦後共有というシチュエーションの中にありました。

 

特に、前々回記述した以下四つの項目は、戦後日本社会の推移(主流)を考える上での前提条件でさえあると思います。

 

敗戦による権威の損失→旧権威の否定

焼け野原の平等→不幸の共有

人口増加・復興と経済成長→成功体験の獲得

中流階級の増加→ライフスタイルの規格化

  

では、創価学会オリジナルのシチュエーションは存在するでしょうか?

 

幾つかあると思います。その中でも日本社会と比較して一番の差異、私が考える創価学会独特のシチュエーション、それは婦人部の存在です。

 

創価学会は、本来ならば物語の大半を家庭の中で創る「専業主婦層(婦人部)」に、「学会活動」というステージを与えることで、「仕事と家族」以外の物語を展開させることに成功したのではないか(勿論、専業主婦以外の婦人部の方もいます)。

 

男性にも「学会活動」というステージはあった訳で、婦人部だけが特別扱いされるのはおかしいと思われるかもしれませんが、「学会活動」に行使できる時間の総量が違います。昼間から活動できる婦人部は、物語を作る場として「職場と家庭」に対等な舞台として「学会」が追加されます。

 

世間の専業主婦の大半が家族の中で物語を作っている事と比較すると、「学会活動」の存在はかなり特異的です。

 

「専業主婦層(婦人部)」に「学会活動」というステージを提供したこと。これは一般的な「日本社会物語」とは一線を画す物語を創価学会内外に提供する下地になっています。

 

例えば、かつて婦人部主体で行われた平和活動や反核運動は、一部の「革新系」団体のシンパは別にして、一般的な専業主婦がそこまで熱意を捧げるテーマではありません。

 

また、婦人部(特に活動家)は、世間一般の専業主婦とは比較にならない程、「良くも悪くも」他人の人生(家族・家庭)に介入してきました。恐らくは、日本一の世話焼き(お節介)集団だったのではないかと思います。

 

そして何と言っても「選挙」。アメリカの公文書すら認める創価学会婦人部の選挙力です。

 

https://wikileaks.org/plusd/cables/07TOKYO2947_a.html

の文章より以下引用。

 

The Women's Bureau is the primary get-out-the-vote machine for Soka Gakkai, and the ruling parties cannot win without their support. 

(婦人部は創価学会にとって最上位の投票推進運動機構であり、与党は彼女達の支援無しで勝利することは出来ない)

 

ちなみに文章のタイトルは以下の通りです。

“LDP-KOMEITO COALITION LIKELY TO LOSE UPPER HOUSE MAJORITY”

(自公連立は参議院過半数を失いそうである)

 

標準的な日本の専業主婦は選挙活動なぞしません。創価学会の婦人部は、選挙活動を通して独特の物語を創価学会内外に提供した(提供している)と思います。

 

 

創価学会オリジナルの物語、それは婦人部が中心ではないか?そんなことを考えています。

 

 

補足

もう一つ、創価学会オリジナルのシチュエーションに言及すると、本来ならばレジャーや趣味に時間を費やす青年層を「学会活動」というステージにあげたことです。婦人部と青年部。池田名誉会長が最も言及した層ではないかと思います。少し意味深です。

 

学会活動(選挙活動含む)には、功徳を求めた部分、つまり「仕事と家族」の充実化という部分も大いにありましたが、活動そのものに物語(意味・価値)を見出している方も沢山いた(沢山いる)かと思います。


 「仕事と家族」の充実化、功徳に直結しない学会活動に熱心な会員がどの程度いたのか(いるのか)、この辺りも考えないと駄目でしょうか。つまり純粋な「信仰活動」に物語を感じた層がどの程度いたのか。

そして池田名誉会長の存在。創価学会員物語には欠かせない存在のはずです。

 

まだまだ考察し甲斐がありそうです。適宜考えたことを記事にしたいと思います。

「創価学会員物語」の終焉

創価学会と物語について。ツラツラと考えていることを述べたいと思います。

 

日本社会において、物語の中心地は大筋において2ヵ所。会社と家庭です。仕事をすること、家族と繋がることがこの国の2大ストーリーです。

 

「仕事と家族」といえば、日本に限らず大きなテーマですが、ボランティア活動や政治活動、余暇の長さなどを比較すると、諸外国以上に日本では大きなウェイトを占めていると思います。

 

会社と家庭。この2大ステージを失ってしまうと、日本という国では生きていくことが非常に困難になります。

 

失うまでいかなくとも、仕事と家族、そのどちらにおいても心地よい物語を見ることが出来なければ、苦しい人生を歩むことになるでしょう。経済的な問題もさることながら、世間が宣揚する物語の大半から弾き出されることになるからです(仕事や家族をテーマにした駄文書籍が如何に多いことか……)。

 

断っておきますが、私は弾き出されることが悪いことだとは思っていません。また、仕事と家族以外の場所が、物語の中心地になっても一向に構わないと思っています。

  

前回紹介した通り、創価学会が戦後日本社会で発展した理由の一つは幾つかの恵まれた条件に囲まれていたからですが、

  

hasu-no-rakuin.hatenablog.com

 それに加えて、「仕事と家族」という「日本社会物語」を上手く会内に取り込み、心地よい「創価学会員物語」を構築・共有することが出来たからではないでしょうか。

 

「社会で実証を示す」「結果を出す」「仕事は三人前」「職場でなくてはならない人に」「一家和楽」「創価家族」等々。よく使われる指導やスローガンは「仕事と家族」に関するものが多い印象を受けます。体験談の大半も「仕事と家族」に中心軸があるように思います。

 

もう少し細かく考察すると、「仕事と家族」に心地よい物語を見る為の前提条件として、「貧困と病気」を克服することが物語のプロローグとなってきました。戸田会長時代から1970年代中盤辺りまで、その傾向が強かったことは皆さん良くご存知かと思います。

 

会員間の助け合い、励ましの共有、温かさの共有に見られる「創価学会人情物語」も存在するのですが、「創価学会人情物語」は「仕事と家族」で満足な物語を見る為の踏み台、「手段」にされてきた様に思えます(一概には評価できませんが)。

 

また多くの場合、「創価学会人情物語」を完成させるには前提条件が付きます。

 

その条件とは、独自の教義見解を持たないこと、池田名誉会長の発言に疑義を挟まないこと、選挙で公明党を応援することです。

 

独自の教義見解を持ち、池田名誉会長を師匠と仰がず、公明党を応援しない会員が、創価学会の中に温かさを感じられるというのならば、創価学会は大した団体だと思います(そんな創価学会を支えている末端学会員が偉大ということ)。

 

「貧困と病気」の克服からの「仕事と家族」の充実化を追求する「創価学会員物語」は、「現世利益の追求」「功徳主義」として世間から叩かれてきた部分でもありますが、日本の体制を揺るがすような行為には繋がらないので(例えばクーデター・革命等)、日本社会から本格的に排除されるような物語とはなりませんでした。

 

この辺が所謂「革新系」とは違うところです。正面からの体制転覆を目指さず、個人における生活の改善を第一義に掲げ、信仰上の意味解釈を世間にある程度迎合させることが出来たのは、創価学会(と学会員)を発展させる上で重要な要素だったのではないかと思います。

 

「貧困と病気」等の事情により「仕事と家族」を中心とした「日本社会物語」から外れた人間が、創価学会(学会員)の励まし、「人情」のサポートを受けながら、池田先生を師匠と決め、信心根本に実証を示していく。仕事で成果を出し、温かい家族を築く。

 

創価学会員物語」の王道プロットはこの様な形ではないでしょうか。二世、三世の会員の場合、「貧困と病気」の部分が「人間関係のトラブル」に変更されることが多いでしょうか。

 

「親しい人物の不幸」や「日常生活への倦怠感」から人生の意味を考えていると先輩学会員が家庭訪問に訪れ……という展開も良くあります。このパターンは若い時の「物語」であることが多く、「池田先生を師匠と決め学会活動に取り組む中で以前よりも主体的に仕事に取り組むようになり成果を上げ、その過程で現在の伴侶である○○さんに出会い」などと続きます。

 

今の日本社会は「仕事と家族」というこれまで掲げてきた2大ストーリーを国民間で共有し辛くなっています。生涯未婚率の増加、出産率の低下、親子関係の多様化、非正規雇用の増加、子供の貧困率の上昇等。物語を成立させる為の基盤が大きく崩れてしまいました。

 

学会内においては「査問」「活動停止」「除名」に代表されるような「創価学会薄情物語」が語られるようになってしまいました。職員幹部と一般会員のライフスタイルの差が「物語の共有」を困難にしている部分もあると思います(職員の言葉が会員に響かない)。

 

創価学会員物語」は「日本社会物語」を基にした派生であり、その基盤は現在進行形で壊れているのではないか。「日本社会物語」を楽しめない人物が増加する以上、「創価学会員物語」に価値を感じることが出来ない人物が増加するのは自然な事ではないか。

 

創価学会員物語」を構築・共有できなくなってしまえば、創価学会は終焉を迎えます。

 

 

補足

私には「創価学会員物語」を楽しんでいる方を否定する意図はありません。また、上記以外の物語を楽しんでいる方を否定する気もありません。

 

創価学会員物語」に関して言及しなければならない事はまだまだありますが、長くなりましたので次の投稿に譲ります。

物語の成立条件

創価学会員は物語を追いかけてきた。学会員に限らず、生きるということは物語を作る事なのではないかと思います。価値創造、価値を見出すということは、(都合の良い)物語を作るということではないか。

 

思想や教義はあくまで、生活(人生)に意味解釈を与える上での説明書・プロットの様なものとして機能しているのではないか。純粋なる思想集団が存在することはまれで、正確には思想をプロットにした物語共有集団が存在しているのではないか。

 

創価学会は、各会員が共通した物語を見る為の恵まれた条件に囲まれていたと私は考えています。戦後日本と創価学会内部に存在した条件をそれぞれ、大まかに記載したいと思います。

 

戦後日本全体が抱えた条件として、以下大きく四つを共有してきたように思います。

 

敗戦による権威の損失→旧権威・既存宗教の否定

焼け野原の平等→不幸の共有

人口増加・復興と経済成長→成功体験の獲得

中流階級の増加→ライフスタイルの規格化

 

創価学会内部に存在した条件としては、以下大きく四つを共有してきたように思います。

 

戸田城聖の政治コネクションと投獄体験→政権との絶妙な距離感

正本堂(大御本尊)という聖地→信仰・教義の単純化を形成

池田大作というカリスマ指導者→信仰者のモデル(キャラクター)を提供

選挙という祭り→定期的な啓発機会

 

 

少子高齢化の加速。ライフスタイルの多様化。政権与党化。大御本尊の否定による会員間教義論争の激化。池田名誉会長の高齢化による名誉会長の解釈を巡っての争議。選挙疲れ。上記した前提条件を基にした物語の維持、あるいは補修作業は限界を迎えつつあると思います。

 

各会員が共通した物語を見る為の条件は、崩壊、あるいは崩壊しつつある。そう判断せざるを得ません。各会員が異なった物語を見る様になれば、自然、創価学会と言う組織は分裂します(すでに一部していますね)。

  

信仰と言う観点で言えば、「不可能を可能にする」「仏法と申すは勝負をさきとし」と思われるかもしれませが、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」と言う部分に目を向ければ、この先創価学会がどうなるかは容易に想像できると思います。

 

 

補足

年代ごとに共有していた物語、あるいは創価学会がプロモーションしていた物語は異なります(いずれ詳しく考察したいと思います)。

 

組織が掲げる壮大なテーマ(世界広布等)が、個人の中に主体的なストーリーとして組み込まれる過程についても、今後考察したいと思います。

池田名誉会長の入信経緯について

昨日は池田名誉会長の入信記念日ということで、宿坊の掲示板でもTwitterでも様々言及されている方がおりました。今回は、池田名誉会長の入信経緯について、少し話したいと思います(以前、Twitterでも呟きました)。

 

池田大作の入信経緯について、創価学会の公史書ともいえる「創価学会四十五年史 革命の大河」に記載があります(1975年出版の書籍です)。

 

座談会で戸田城聖と出会っていること、その場に原島夫妻と竜年光が居合わせたこと、池田名誉会長が座談会の約1週間後に学会本部で5時間にわたり話を聞いて(つまり折伏されて)入信に至ったことが記載されています。ちなみにですが、詩を詠んだことも記載されています。

 

竜年光は後年、創価学会から離脱した後も、池田大作戸田城聖の出会いそのものは否定していません(詩を詠んだ云々は否定しています)。 竜が会員時代、学会側(あるいは池田名誉会長)の要請で嘘をついていた可能性もありますが、それなら離脱後に暴露したのではないかと思います。

 

座談会で戸田城聖池田大作が出会っていたのは事実

詩を詠んだ云々は不明

入信を決意したのは学会本部でみっちり折伏されたから

 

池田名誉会長の入信経緯はこんな感じでないかと私は考えています。

 

「小説 人間革命」の山本伸一が入信するエピソードは同小説第2巻に収録されていて、出版が1966年です。「小説 人間革命」の該当巻が出版された後も、戸田会長の話を聞いてその場で入信を決意したわけではないこと自体は、創価学会も認めていました

 

「小説 人間革命」が出版された後も、史実がどうであったかを創価学会は書籍で公表しています(大々的に小説との差を強調する事はありませんでしたが)。

 

昭和30年代に出された印刷物には池田名誉会長の入信経緯が赤裸々に書いてありますが、1975年においても一応の事実を記載していたことは記憶して良いのではないかと思います。