蓮の落胤-創価学会、話そうか

非活動家の学会3世が創価学会、日蓮、公明党等を語ります。

公明党を振り返る(後編)

前回に引き続き公明党を簡単に振り返ります。

 

1970年から現在に至るまで、公明党は国政選挙において当選議員数という意味では勝ったり負けたりを繰り返します(最近は落ち着いた状態です)。Twitterでご指摘を頂きましたが、公明党議席数の増減に関しては選挙制度に依存する部分が多そうです。

 

しかしながら、得票率という点ではこの頃からたいした進展はありません。

 

2016年に行われた第24回参議院議員選挙における公明党の比例得票率は13.5%。

 

公明党衆議院で最多議席を記録したのが1983年(58議席)。この時の得票率が10.1%。改選、非改選合計で、参議院で最多議員数を記録したのが同じく1983年(27議席)。この時の得票率(比例)が15.7%(おそらく歴代最多得票率)。

 

1962年の参議院選挙、全国区で412万票の11.5%。1968年の参議院選挙、全国区で665万票の15.4%。1969年の衆議院選挙、512万票で10.9%。

 

公明党の得票率は15%前後で頭打ちです。得票率に関しても選挙制度に依存する部分があるかもしれませんが、公明票は投票数の15%程度が限界値です。

 

公明党の凄いところは「頭打ち」がひたすら続いていることです。単一の支持団体によってのみ支えられている政党の得票率が「頭打ち」を続けられるというのは驚異と言ってよいでしょう。

 

1970年までの公明党は、破竹の勢いで拡大する創価学会に支えられ選挙戦に勝利し続けました。強烈な信徒集団に支えられたフットワークの軽い新興勢力。しがらみが少ないという新興勢力最大の利点を生かしながら急速に勢力を拡大していきました。

 

他政党をほぼフリーハンドで批判出来、支持本体母体(創価学会)は絶頂期。負ける要素がありません。公明党は日本国内において確固たる地歩を固めます。

 

1970年に発生した言論問題とは、公明党(創価学会)が名実共に日本の有力団体として認識される過程で払った通行税の様な物だったと思います。

 

言論問題は創価学会の出版妨害行動として注目されてしまいますが、言論問題が起こらずとも、いずれどこかで何らかの形で創価学会は日本社会からの「洗礼」をうけたことでしょう。

  

言論問題で幕を上げた1970年代。公明党は、支持母体である創価学会の試行錯誤に連動しながら(場合によっては振り回されながら)、1970年代を過ごします。

 

1970年代前半、創価学会員の増加ペースは鈍り、言論問題により世間の注目を悪い意味で集め、創価学会は次の一手をどうするべきか試行錯誤を重ねていきます。いわゆる昭和52年路線(1977年)もその一環です。公明党に関係するところでは1975年の創共協定締結が一大施策でした(あまり機能しませんでしたが)。

 

創価学会側の試行錯誤に干渉されるのが嫌だったのか、この時期、創価学会公明党の関係が複雑になることもありました。

 

池田会長と公明党の不一致(1975年、竹入公明党委員長の池田会長批判) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長は公明党の方向性に不満を抱いていた(1975年、創共協定に関連する外交公電より) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

時代の変化に対応し組織の行き詰まりを打破するため試行錯誤を重ねた創価学会でしたが、成果の乏しい結末を迎えることになります。組織改革、新たな挑戦に失敗したと言って良いでしょう。少なくとも、長期的な道筋をつけることには失敗してしまいました(池田会長(当時)が明確なストラテジーをどの程度描いていたのかは不明です)。

 

会員数の増加にブレーキがかかり、それに対応すべく、折伏大行進時代からの脱却、新しい創価学会の確立を目指した試行錯誤は池田会長の辞任という形で終焉を迎えました(昭和54年、1979年)。

 

公明党の支持母体である創価学会はグランドストラテジーの確立に失敗しましたが、公明党もまた、将来飛躍するための大戦略の確立に失敗しました。その結果、学会員の支持に支えられて一定の勢力を保ち続けますが、新規支持層の拡大には失敗しました。

 

創価学会折伏のピークが大体1970年前後、正本堂の完成(1972年)までと言われています。創価学会員以外からの幅広い支持を取り付けることに失敗した公明党は、この時既に上限に達していたのかもしれません。

 

公明党が1970年代から現在に至るまで、革新勢力と保守勢力の間で位置取りに苦労することになった理由は、有効な長期戦略(支持を広げる為の看板となる政策の選定・実行)を立案出来なかったからです。

 

最初に得票率の部分で少し触れましたが、公明党の最多議席獲得は、衆参両院とも1983年。その後議席数が伸びることはありませんでした。選挙制度や議員定数の変化による影響もありますが、得票率の増加を達成できなかったのは事実です。公明党創価学会の成功と共に発展し、創価学会の失敗と共に停滞したという評価に尽きるでしょう。

 

1980年以降の公明党の政局関与に関して、例えば、55年体制下での他政党との連携・衝突(自公民の連携、1983年)、竹下内閣と消費税の導入、細川政権成立(1993年)からの自社さ連立(1994年)、新進党時代(1994‐1997年)。四月会との闘争(1994-2001年……自公政権が1999年始動なので実質は1999年まで)。この辺を言及、考察しても良いのですが今回は扱いません。理由は二つあります。

 

一つは、単純に私が知識不足だからです。公明党が国政政党の重要ポジションを確保し、他党との駆け引きが本格的に始まった後の動向について言及するには、他政党の内情・動向についても知っている必要があります。今の私には無理です。おそらく、冷戦後期から1990年代にかけての日本政治を振り返ることになるでしょう(簡単にできることでは無いです……)

 

もう一つの理由は、細かい政局の変化、他党との駆け引きを調べてもあまり有意義ではないと考えているからです。他党との駆け引きは様々あったと思いますが、公明党の本質、公明党が抱えているシチュエーションというのは1980年以降、基本的に変化していないと考えています(政策は変化しています)。

 

他党との駆け引きはあくまで、公明党創価学会という単一の支持団体(の構成員)によって支えられているという前提条件によって誘発された表面上の変化に過ぎない。私はそう考えています。

 

公明党の政局関与は、自民党への接近と15年間の与党生活に落ち着くわけですが、公明党がその勢力をほぼ創価学会員の支援によってのみ維持しているという状況があったからこその結末と考えています。

 

公明党創価学会員以外からも幅広い支持を取り付けていれば、あるいは創価学会が末広がりで発展し続ければ、自公政権というエンディングを迎えることもなかったと思います。

 

1980年以降の公明党の際立った変化は、政権運営者になる為の第二条件をクリア、即ちアメリカ政府からの承認を得たことです。このブログでも何度か取り上げていますが、公明党は1970年代以降、定期的にアメリカ大使館とコンタクトを取り、国政政党としての経験を積んでいきます。

  

アメリカからの承認を得る上で最大の難所となったのが、日米安全保障条約在日米軍基地、自衛隊。当初公明党は、日米安全保障条約の段階的撤廃、米軍への基地供与反対、自衛隊違憲の立場でした。これはアメリカの極東政策とまるで反対で、アメリカ政府から承認されることのない主張です。

 

公文書から確認できたのは、1977年前後からの政策方針変更。1977年の時点でアメリカ側に日米安全保障条約への賛同を非公式に通達していましたが、党としての公式見解が変更されたのは1981年。安全保障政策における方針転換は結果的に自民党との距離も縮めます。

 

1977年の二枚舌(公明党安全保障政策の変遷-前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

池田会長の一存に非ず(公明党安全保障政策の変遷-後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

不明瞭な意思決定機構(公明党の安全保障政策の変遷-番外編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

公明党の安全保障政策の変更が如何なる動機だったのか(自民党への接近、政権関与を目的にしただけかもしれません)、公明党サイドが望んだのか、池田会長が望んだのか、それは分かりません。

 

確かなことは、公明党の安全保障政策の変更は創価学会が試行錯誤を重ねている時期に開始されたことと、1981年に日米安全保障条約の継続と自衛隊の存続が党として決裁されたことです。

 

 

省いた部分も随分ありますが、前編と合わせて公明党の歴史を振り返ってみました。

以下、振り返った上での私個人の感想を綴ります。

 

公明党は本質的に1980年から進歩していない。政策は変化したけれども、全ては創価学会員以外からの支持獲得に失敗したのが原因。根本的な問題は長期的なグランドストラテジーの欠落にあり、それは支持母体である創価学会にも言える。

 

政策変更があったにもかかわらず学会員が公明党支援を辞めなかった理由は、公明党支援が信仰の範疇に、つまり合理的・理性的判断だけでは機能しない場所に含まれていたから。現在も同じ。

 

創価学会員の強烈な選挙活動に依存して勢力を維持し、安全保障政策をアメリカ寄りにシフトすることでアメリカ政府の承認を得る。1980年からこの状況に変化は無く、政権運営者になる為の条件をクリアし続けている。

 

創価学会の体力が大幅に低下したにも拘らず、公明党が一定勢力を保っている理由は、創価学会以外の団体が創価学会以上に衰えたから。支持者を世襲出来るのが公明党の強み。また、自社さ連立政権発足以降の投票率の低下に助けられている面もある。対立団体の衰退と投票率の低下が、極端な選挙活動を行う学会員の相対的な影響力を強めている。

 

ただ、創価学会の体力低下は著しく、長期的な大戦略も打ち立てられないのが現状。いずれタイミングを見計らって(創価学会にとって都合の良いタイミングで)、国政選挙から(衆議院、あるいは選挙区から)撤退するつもりでいるのではと推測する。

公明党を振り返る(前編)

あっさりとですが、立て続けにダイレクトな政治ネタを3件記事にしました。その中で、政権運営者にのし上がる条件と、55年体制確立以降に発足した連立政権を振り返りました。

 

政権運営者への道(前編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

政権運営者への道(後編) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

公明党は歴代2位の与党歴(日本に誕生した連立政権を振り返る) - 蓮の落胤-創価学会、話そうか

 

上記記事の中で、政権運営者になる為には第一条件として国内勢力争奪戦(選挙)に勝利する必要があること、第二条件としてアメリカ政府から承認される必要があることを示しました。

 

また、与党経験のある政党で現在まともに存続している政党が公明党だけであること、公明党の与党歴が歴代2位の長さ(15年)であることを示しました。

 

今回は歴代2位の与党歴を持つ公明党について、いかにして権力の座に就くことが出来たのか、その足跡を簡単に振り返ります。

 

公明党が結党されたのは1964年ですが、創価学会の政治進出は1955年。1955年の地方選に文化部員として何名かの学会員を送り出します。

 

大きな地域としては、東京都議会議員横浜市議会議員がそれぞれ1名誕生しています。また、それ以外に全国各地で51名の学会議員が誕生します。立候補した文化部員は全部で54名だったので、1名を除いた53名が当選したことになります。計算が上手いのは昔からですかね。

 

国政選挙への参加は1956年。創価学会内では有名な「大阪の戦い」の舞台となった第4回参議院議員選挙です。6名が立候補し、その内3名が当選します(大阪選挙区で白木義一郎氏、全国区で辻武寿氏と北条雋八氏がそれぞれ当選)。

 

全く余談ですが、この時当選した北条雋八氏は第四代会長北条浩の叔父にあたります(北条雋八氏なんかも調べてみれば中々面白いことが判明しそうですが……貴族院議員経験者)

 

1961年11月には公明党の前身組織、政治結社「公明政治連盟」が発足。1962年1月の本部幹部会で正式発表。この時点で、参議院議員9名、地方議員約300名を抱える規模になっていました。

 

1962年、第6回参議院議員選挙で公明政治連盟は地方区と合計で9名が当選(候補者全員当選)、非改選と合わせて15議席を擁するまでになります。

  

1963年の全国統一地方選挙では公明政治連盟から1000名を超える地方議員が誕生します。

 

1964年には公明政治連盟から公明党に改組。国政政党としての歴史が始まります。結成当時は、参議院15名、地方議員1000名を擁する状態でした。

 

1965年、第7回参議院議員選挙では11名が当選。非改選と合わせて20名の勢力となり、参議院における第3党の地位を獲得します(自民党140議席社会党73議席民社党7議席)。

 

1967年、公明党は初めて衆議院議員選挙に候補者を立てます(第31回衆議院議員選挙)。この衆議院選挙において、公明党は一挙に25名の当選者を得ます。自民党277議席社会党140議席民社党30議席に次ぎ25議席。当時の創価学会の勢いの強さが伺えます。

 

1968年の第8回参議院議員選挙も順当に勝利し(非改選と合わせて24議席を確保)、1969年の衆議院選挙では、自民党288議席社会党90議席に次ぎ47議席を獲得。民社党31議席を押さえて第三勢力に躍り出ます。定員が多かったとはいえ、47議席(2017年10月現在35議席)。公明党(創価学会)は名実共に日本の有力集団へとのし上がりました。

 

そこで迎えた1970年、言論問題が発生します。実際には1969年12月に衆議院選挙があり、その直前に問題となった「創価学会を斬る」が出版されています。国会で民社党などの野党が「言論出版妨害事件」として取り上げたのが1970年。

 

「言論出版妨害事件」は創価学会が日本社会の“風圧”を強烈に体験する機会となり、その後の活動方針に大きく影響を与えます。末端活動家の基本行動はともかく、創価学会は少しずつ穏健化、現実的な団体になっていきます(そして公明党も)。

 

言論問題以前から少しずつ穏健化、現実化の方向性はありました。個人的には、折伏経典を絶版(昭和43年版が最後)にしたのはかなりの方針転換だったのではないかと考えています。

 

1970年5月3日に行われた第33回本部総会では、言論問題を受けて、「あらゆる批判に対して、真正面から取り組み、非は非として認め、正すべきは正して前進する」と池田会長(当時)が発言。

 

同本部総会では、公明党議員が創価学会の幹部を兼任している状態を是正する旨が表明され、創価学会公明党をそれぞれ独立した団体として機能させていくことが強調されました(実際は……)。

 

 

追記

誤字修正(2017年10月14日)

 

公明党は歴代2位の与党歴(日本に誕生した連立政権を振り返る)

前回、前々回、あっさりとですが日本の政治情勢を考察しました。今回は日本に誕生した連立政権を振り返ります。

 

1945年、大日本帝国は連合各国に無条件降伏。米軍主体の連合国占領下、戦後日本がスタートします。占領下の日本は基本的に吉田茂内閣ですが、敗戦による混乱(と戦前・戦中の影響)から、政治情勢は非常に混沌としていました(この時期、多数の連立政権が樹立されました)。

 

サンフランシスコ講和条約締結(1951年、占領の終結)を経て1955年、保守政党の合併により自由民主党(自民党)が結党されます。自民党日本社会党(社会党)の2大政党が政治の中心軸となる、いわゆる55年体制の始まりです。

 

自民党社会党が2大政党として存在しましたが、実際の議員数では自民党の方がかなり多く、自民党以外の政党が政権与党の立場になることはありませんでした(伯仲国会となり法案ごとに野党と連携することはありました)。

 

55年体制確立以降、自民党は戦後長らく、単独与党政権を運営することになります。1990年代に突入するまでは自民党だけが政権与党と言ってよい状態でした。

 

1983年に新自由クラブとの連立政権が誕生しますが、新自由クラブは元々自民党議員の集まりでした。その上、最終的に新自由クラブ自民党に合流して消滅します。

 

1989年、自民党参議院選挙で大きく議席を減らし、公明党民社党と部分的に連携する事態となりましたが、連立政権は誕生しませんでした。

 

状況が大きく動いたのは1993年、細川内閣が誕生し、非自民・非共産連立政権が打ち立てられた時です。結党以来38年間、与党の座にあった自民党が野党に下野し、政権を奪われる事態が発生します。

 

しかしながら非自民・非共産連立政権が混乱を極めた結果(8党派による合同運営は無理だろう……)、1年に満たない短期間で連立政権は崩壊。1994年、自民党社会党新党さきがけによる自社さ連立政権が誕生。自民党は政権与党にカムバックします。

 

自社さ連立政権は、自民党社会党というそれまでの主敵同士が手を組んだことで野合政権という批判を受けます(この時期に形成された既存政党への不信感が現在に至るまで尾を引いている気がします)。

 

新進党自民党以外で社会党議席を超えた戦後初の政党だった)の誕生と解党、それに伴う新党ブーム等、非自民・非共産連立政権と自社さ連立政権の時代、日本政治は混乱の渦中にありました(四月会を発端に自公が一番敵対していた時期でもあった)。

 

自社さ連立政権は1998年まで続きます。自社さ連立政権は、社会党新党さきがけの弱体化(社会党新党さきがけに所属していた議員が中心となって、民主党が結党されます)と社会民主党社会党から党名変更)の政策方針転換を主な理由に解消されます。

 

自社さ連立政権誕生から解体までの期間に新進党からの離反者が自民党に合流するなどして自民党衆議院での過半数を回復しますが、参議院での単独過半数を奪い取ることが出来ずにいました。

 

1998年7月、自社さ連立政権を解消して臨んだ参議院選挙で自民党は敗北。当事の橋本首相は責任を取って内閣総辞職。小渕内閣が誕生します。1998年7月から1999年1月までの期間、小渕内閣は数年ぶりに自民党単独与党の状態でしたが、参議院における単独過半数獲得は未達成のままでした。

 

参議院での過半数を確保し安定した政権運営を目指す意図があったのか、1999年1月、自民党小沢一郎率いる自由党連立政権を樹立。自自連立政権が発足します。

 

この自自連立政権は、1999年10月に公明党が参加して、自自公連立政権へと変化します。2000年4月に自由党が連立を離脱。連立離脱に反対した議員が自由党を割って出て保守党(後に保守新党)を結党、連立政権に参加。自自公連立政権は自公保連立政権に変わります。

 

2003年11月、保守新党(保守党)は自民党に吸収され解散。自公保連立政権は自公連立政権へと形を変えます。

 

自公連立政権は、2007年7月における参議院選挙での敗北(ねじれ国会の形成)を経て2009年7月、麻生首相(当時)が必敗のタイミングで衆議院を解散、民主党相手に惨敗し消滅します。

 

この衆議院選で自民党は結党以来守り通してきた衆議院第一党の座から転落、連立政権の相棒である公明党小選挙区全滅。自民、公明両党は歴史的な大敗北を経験します(ここでよく反省すべきだった)。

 

2009年9月、選挙に大勝利した民主党を中心に、民主党社民党国民新党による連立政権(鳩山内閣)が誕生。羽田内閣から15年ぶりに自民党が参加しない政権が発足します。

 

ところが民主党中心の連立政権は発足直後に普天間基地の問題を巡り大混乱。誕生から1年も経たずに失速。社民党は連立を離脱。2010年6月、鳩山内閣は総辞職。

 

新しく発足した菅内閣で迎えた2010年7月の参議院選挙に民主党は敗北。民主党議席数を減少させ、民主党国民新党による連立政権少数与党の立場になってしまいます(ねじれ国会の再誕生)。

 

年が明け2011年。戦後最大の大災害、東日本大震災が発生、対応に追われます。その後も民主党国民新党による連立政権は苦しい状況が続き、最終的には2012年11月、追い込まれた野田総理(当時)が民主党政権に不利な状況下で解散総選挙を行い敗北。民主党中心の連立政権は終焉を迎えます。

 

2012年12月、民主党中心の連立政権を打ち破り第二次安倍内閣が誕生。自公連立政権が復活し、現在(2017年10月)まで継続しています。

 

以上、日本に誕生した連立政権について(政権交代劇について)簡単に振り返ってみました。1955年以降、自民党以外で政権への参加(与党)を経験した政党は以下の通りです(五十音順)。

 

改革の会、公明党国民新党社会民主連合社会民主党(社民党)、自由党新自由クラブ新生党新党さきがけ日本社会党(社会党)、日本新党、保守党(保守新党)、民社党民主改革連合民主党

 

この内、現在も政党として存在しているのは公明党社会民主党(社民党)だけです。社民党は殆ど死に体なので、勢力を維持しているのは事実上公明党だけと言えます。

 

民主党自民党を下野させて連立政権の中心軸になったわけですが、2012年の選挙に敗北後は自民党と競えるほどの勢力を回復できず、民主党主軸で形成された民進党は現在解党中。民進党を飛び出て一部議員が立憲民主党を結党。更に一部議員は無所属で出馬。民主党自体は消えたと考えて良いと思います。

 

1999年10月から2009年9月までの約10年間と2012年12月から現在に至るまでの約5年間。足掛け約15年間の与党生活は、自民党に次いで歴代2位の長さです(1955年以降で計算しています)。

 

社民党社会党時代(1955年以降で、非自民・非共産連立政権時代を含む)を足して約5年5ヵ月で歴代3位。民主党が約3年2ヵ月で歴代4位です。

 

新党さきがけ社会党社民党の議員が中心になって民主党を結党したことを考慮して民主党を約8年(自社さ連立政権時代と非自民・非共産連立政権において社会党が参加した細川内閣時代を追加)の与党生活と計算しても、足掛け約15年間の与党歴は自民党に次いで堂々の2位です。

 

公明党は歴代2位の与党歴を持つ確固たる権力機構です。15年間与党を務めた公明党は日本をどう変化させたのか。責任政党として掲げてきた政策をどう実行してきたのか。

 

生活しやすい環境になったのかどうか。日本周辺の国際情勢はどうか。未来は明るいか。少なくとも安心出来るかどうか。歴代2位の与党歴を持つ公明党をよくよく検証する必要があるでしょう。

 

政権運営者への道(後編)

前編に引き続きダイレクトな政治ネタです。

希望の党を参考に、日本政治の抱えている状況を考察します。

 

前回、政権運営者になる為の第一条件を国内勢力争奪戦(選挙)における勝利、第二条件をアメリカ政府からの了承と設定しました。希望の党は既に、第二条件をクリアする人材(と政策)を備えつつあります。

 

希望の党にとっての問題は第一条件、国内勢力争奪戦(選挙)の方です。

 

前回も言及しましたが、日本政治の中心は自民党です。自民党の支援団体は多数あり、時代や場所によって変化し、一様には表現できませんが、日本利権の複合体と評価してよいかと思います。だからこそ第一条件、国内勢力争奪戦(選挙)に勝利し続けました。

 

自民党以外が国内勢力争奪戦でそれなりの戦果を挙げてきた歴史もあります。単一政党に限って話をすれば、冷戦期には社会党が野党の雄として存在しました。90年代には新進党がひと暴れし、2000年代には民主党が政権奪取に成功しました。

 

しかしながら長期的に考えれば自民党が国内勢力争奪戦(選挙)の勝者(それも圧倒的な)でした。国内勢力を大きく二つ、「組織」と「個」に分け、国内勢力争奪戦を選挙に限定して解釈すると以下を意味します。

 

自民党を支持している「組織」と「個」の合計が他政党のそれを上回っていた。

 

当たり前の話ですが、選挙で自民党を打ち破るには「組織」と「個」の合計で自民党を上回る必要があります。

 

長い年月をかけて築かれた自民党と「組織」の繋がりを壊し、自分達の支援「組織」に転向させることは容易なことではありません。自民党が支援「組織」に提示するよりも魅力的かつ実行可能なプランを提唱する必要があります。

 

「個」の方は無限の可能性があります。「組織」と違い固有利害や拘束力の少ない「個」は変動の幅が大きく、風が一吹き、スキャンダル一本で変質する可能性があります。但し、「個」を固定ファンにする為には、党の政策含め入念なブランディングが必要です。

 

「組織」と「個」の合計で自民党に打ち勝てればよいので、「組織」を取り込めない、あるいは「組織」狙いでは不利……となれば多数の「個」を取り囲む必要があります。

 

短期間で「個」を大量に獲得する方法は一つ。目立つこと。話題を作ること。「個」を劇場の観客にしてしまうこと。希望の党(かつては維新)の戦い方は非常に理にかなっています。話題を作って「個」を攫わない限り勝機はありません。

 

話題の内容は正直なんでも良く、とにかく目立つこと。「個」が靡く様に魅せること。発信源が東京でも大阪でも、全国ニュースになれば知名度は上がります。

 

政策としての実利や有効性は関係ありません。むしろ、実際に実行することを考えれば、大して重要でない課題で騒げた方が後々楽です。自民党(今なら自公)よりも目立つこと。それが「個」を確保するポイントになります。

 

確固たる成果をもって「個」を確保するならば良いのですが、それが出来るのは権限のある与党に限られがちです。新興勢力は話題作りをしないことには始まりません。

 

日本共産党(共産党については別途記事にしたいと思います)、社民党立憲民主党。「組織」を自民党から奪う力はありません。奪う気もないかもしれません。狙いは「個」です。現野党にも「個」を狙う以外に政権奪取の方法はありません。

 

ここで改めて問題になるのが政権運営者になる為の第二条件、アメリカ政府からの了承確保です。

 

言うまでも無いことですが、日本の政権がアメリカ政府からの了承を得る為には、ある程度アメリカの外交政策(と経済政策)を承認することになります。日本周辺に限定すれば、日米安全保障条約在日米軍基地の維持は必須になります。それに付随して自衛隊の維持も求められるでしょう。

 

場合によっては、アメリカの海外展開をアシストする必要も出てきます(いわゆる国際貢献・積極的平和主義)。自民党(と公明党)が“対米追従”と言われる所以になるアレです。

 

政権運営者になる為の第二条件を満たすためには、党の政策として、日米安全保障条約在日米軍基地および自衛隊の維持を最低限掲げる必要があります。情勢次第ではアメリカの都合に合わせモディファイする必要もあります。

 

第二条件を満たす時、安全保障政策に関して自民党との差は殆ど無くなります。後は国内政策絡め、国防という観点で自民党よりも“積極的”になるかどうかの違いです。分かり易い表現を使うならば、「右の自民」よりも目立つために「極右」になるかどうか。希望の党や維新の“ブランディング”や如何に。

 

第二条件を満たしながら、自民党よりも“消極的”な立場にいるのが公明党です(公明党は安全保障政策を選挙における戦い易さで決める政党ですが)。公明党の戦略は明確です。第二条件を満たしつつ、第一条件、支援組織(創価学会)の支持を取り付けること。彼等には政権第一党を奪取る気概など一切ありませんが、自公政権を支える身として政権運営者の条件を手堅く守っています。

 

野党の提案している安全保障政策の多くは、第二条件、アメリカ政府からの了承獲得を困難にしていると思います。良いか悪いかは別の話です。

 

安全保障政策に限定すると、自民党より「右」にして目立つか、第二条件を満たさない内容で自民党より大幅な「左」を狙うか。このどちらかしか「個」を獲得するような話題作りが出来ません(戦後日本が置かれた状況も関係しますが)。話題作りをしなくとも良いのは、何をやってもファンがついてくる公明党だけです(むしろ話題にしたくない内容……)。

 

希望の党立憲民主党を中心に多数の情報が飛び交かっていますが、彼等の提唱する政策の是非はともかく、選挙・政治闘争(自民党を倒して政権運営者を目指す)という意味では、非常に理にかなった(杜撰かつ稚拙な面もありますが)戦い方をしていると私は考えています(勝算は薄いですが)。

 

 

余談

私は経済の事をまともに調べたことが無いので、経済政策に関しては何とも言えません。一つ感覚で言うと、自民党よりも新自由主義的な方向に振れて目立つか(この場合、「組織」によっては自民党よりも好意的に評価してくれるかもしれません)、競争や格差を減らす方向(新自由主義的を強く否定する)にポジションを取るか(この場合も、「組織」によっては自民党よりも好意的に評価してくれるかもしれません)。

 

希望の党や維新が前者、野党は後者。自公は国内外相手にヒィヒィ言いながらバランス取り。そんなイメージを持っています(不勉強ですみません)。「組織」のしがらみが無い新興政党ほど、歴史ある既存の国内産業を無視する形でより自由主義的な政策を打ち出し、産業的に新しい「組織」の確保と競争に強い「個」の確保に向かう。あくまでイメージです。

 

アメリカも国内産業が一枚岩なわけではないので、アメリカの経済政策に従う=新自由主義的という図式が常に成り立つとは思っていません。

 

政権運営者への道(前編)

今回はダイレクトな政治ネタです。

公明党創価学会)に限定せず、日本の政治情勢について記事にします。

 

急な解散、小池勢力の出陣と混乱、民進党解体からの立憲民主党結成。この数週間ほどで国内政治の勢力図に大きな変動がありました。

 

評論家、政治家、市民。新聞、テレビ、ネット。既に多くの方が、様々な場所において多様な角度から解散総選挙とそれに関連した政治騒乱について批評しています。

 

断っておきますが、私は特に永田町の事情通でもなければその筋の専門家でもありません。親族に公明党議員(地方)が居たことと創価学会の選挙活動に巻き込まれたことを除けば、誰もが入手できる情報以外に政治・選挙を考察できる材料は持ち合わせていません。

 

以下、私なりの分析・考えを述べます(どこかで誰かが同様なことを述べているかもしれませんが)。

 

戦後日本政治の中心が自民党であることに異論はないと思います。自民党を軸に日本の政治はありました。

 

自民党は日本政治の中心ですが、日本の政治・政策は日本の都合(自民党の都合)だけで決定さるわけではありません。日本の政治・政策が、諸外国の影響を受け決定されることもあります。最も影響を与えるのはどの国か。間違いなくアメリカです(最近は中国も著しいか)。

 

一般に言われるほど日本がアメリカ政府の下僕(いいなり)かどうかはともかく、アメリカ政府の意向に逆らうことは日本政治の指導者にとってかなりリスクのある行動です(日本に限りません)。

 

日本に限らず、超大国以外が政権を安定して運営する為には、国内勢力をある程度まとめ上げると同時に対外的な安定を確保する必要があります。極端に言うと、アメリカ政府から了承を得る必要があります(全ての問題をアメリカ政府に擦り付ける気はありません)。

 

実際は全ての国が影響を与え合い、国家という概念に縛られない団体や個人も相互に干渉します。アメリカ政府も代々政策にカラーがありますし、一枚岩でもありません。あくまで大局的な話です。

 

話を日本政治に戻します。自民党が安定して政権を運営出来る(出来た)理由は、国内勢力を上手くまとめ上げ、尚且つアメリカ政府から睨まれるようなことを大局的にはしない(しなかった)からです(細かく評価すれば個々の内閣によって温度差があるでしょう)。

 

日本で安定して政権を運営する為には国内勢力をある程度統括し、更にアメリカ政府に承認される必要があります。自民党を中心とした戦後日本政治を振り返れば、この点は明白かと思います。

 

政権運営者を本気で目指すのならば、他党との国内勢力争奪戦(選挙)に勝利し、尚且つアメリカ政府の了承を得る必要があります。

 

国内勢力争奪戦(選挙)における勝利を政権運営者になる為の第一条件、アメリカ政府からの了承を第二条件と設定できるかと思います。

 

現在、民進党(民主党)は事実上分裂、解体の途上にあります。その中でも「右派」と呼ばれる方が希望の党に移籍した(あるいは移籍しようとしている)と評されています。

 

彼等が「右派」(あるいは極右)かどうかはここでは論じません。個人的に興味深いと思ったのは、旧民主党の国外対応組が希望の党へ参加している事です。

 

旧民主党の有力議員。既に希望の党に所属している長島昭久氏と、「いずれは希望の党へ」と公言した前原誠司氏。この2名は民主党時代、アメリカ(国外)との交渉によく従事していた方という印象を受けます。

 

Wikileaksには、民主党政権が誕生する頃(2006-9年)のアメリカ外交公電が多数掲載されていますが、民主党のコンタクト役として、長島氏と前原氏の名前を比較的良く見た記憶があります(正確にカウントしたわけではありません)。

 

因みにですが、2007年、希望の党震源地こと小池百合子都知事は第一次安部内閣防衛大臣を務めていました。小池氏もアメリカとのコネクションは十分です。

 

希望の党政権運営の第二条件、アメリカ政府からの承認をクリアする為の布石を着々と講じてきたと判断出来ます。万が一、希望の党が政権を取ったとしてもアメリカ政府は特に不快感を示さないでしょう

 

希望の党にとっての問題は第一条件、国内勢力争奪戦(選挙)の方です。彼等が第一条件を満たすために練った策、戦いぶりは、国内政治情勢の象徴の様に思います。

 

(後半へ続く)

 

不明瞭な意思決定機構(公明党の安全保障政策の変遷-番外編)

前回・前々回と、公明党の安全保障政策の変遷についてアメリカ外交公電を基に考察しました。公電の記述内容を“真”と前提した上で、文章に記載されている事柄を淡々と追いかけたつもりです。今回は、憶測を交え、幾つかの穿った見方(仮説)を示したいと思います。

 

前回・前々回の記事で紹介しましたが、公電から確認出来た内容は以下の通りです。

 

公明党の安全保障政策転換のキーマンは矢野書記長

アメリカ側は池田会長が矢野使節団の訪米を推進していると考えていた

矢野使節団に影響されて公明党指導層は政策方針変更に前向きになった

公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した

党の政策方針変更には失敗したが、竹入委員長のスピーチで言及した

 

上記5つの内容を(少し斜めに)検証していきます。

 

については疑う必要が無いかと思います。実際、公明党の訪米使節団の長は矢野書記長(当時)でした。公的な立場でのキーマンは、矢野書記長です。②に繋がりますが、その後ろに池田会長(当時)が控えていたかどうか。それによって物語は大きく変化します。

 

は検討の余地ありでしょうか。外交公電では、

 

He is strong candidate to succeed chairman TAKEIRI, and is said to be close to DAISAKU IKEDA, president of CGP's principal support organization, SOKA GAKKAI, and who is believed to have hand in promoting YANO mission

 

と、あくまでも“信じられている”という表記です。もしかしたら、公明党側の独断という可能性もあります。

 

矢野書記長、竹入委員長のコンビ時代ですので、池田名誉会長を全肯定する方は「矢野・竹入が師の平和思想を裏切り独断で決めた」と分かり易いシナリオを想定するかもしれませんが、それは短絡的かと思います。

 

党の安全保障政策が公的に変更されたのが1981年と、池田会長が会長を辞任した後であり、宗創問題の混乱期を跨いだのは事実です。しかしながら、党が方針変更を決定したのは遅くとも1977年。池田会長時代です。

 

「矢野・竹入の独断」であった場合、池田会長は公明党の重要政策、それも平和主義に直結するような政策の変更にまったくの無関心、無抵抗、無力であったということになります(池田名誉会長を全肯定する方には、それはそれで受け入れ難いでしょう)。

 

 

池田会長が訪米使節団を支援しつつも、あえて自分の名前を前面に出さなかった可能性もあります。この辺は、矢野元委員長か池田名誉会長のどちらかにに聞いてみないと分からないでしょう。

  

 

に関して、公明党の説明(矢野使節団が安全保障政策方針変更のターニングポイントになったというアメリカ大使館に対する説明)は若干脚色されていると私は考えています。

 

公明党の一部指導層は、安全保障政策の変更をある程度決心していたが、竹入委員長を説得するため、あるいは政策変更にもっともらしい理由を与える為に矢野訪米使節団を派遣した。というのが私の推測です。以下、いくつか根拠を示します。

 

前々回紹介した公電の中に公明党側の発言として以下の内容が記録されています。

 

CGP MISSION TO US                      

(公明党訪米使節団-1977年3月4日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=46620&dt=2532&dl=1629

 

Watanabe is counting heavily on mission to help educate YANO on importance of US-Japan relations and enhance his understanding of mutual problems.

(渡辺は、使節団が日米関係の重要性を矢野に教育する手助けになること、彼の日米共通の問題に対する理解を強めることを強く期待している)

 

文面を素直に読み取ると、渡辺議員は “矢野書記長が日米関係の重要性を理解すること”を期待していたと推測できます。渡辺議員は“矢野書記長が安全保障政策を転換してくれること”を期待していたと読めないこともありません。

 

因みにですが、アメリカ側も矢野書記長の訪問を、公明党を転向させるチャンスであると認識していました。

 

CLEAN GOVERNMENT PARTY VISIT TO U.S.

(公明党アメリカ訪問-1977年10月26日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=250191&dt=2532&dl=1629

 

Visit of CGP SECGEN YANO to U.S. in early November offers important opportunity to encourage CGP shift toward constructive policies, especially on US-Japan security treaty.

(11月初旬に予定されている矢野公明党書記長の訪米は、公明党を建設的な政策へ、特に日米安全保障条約に関して、シフトさせる重要な機会を提供する)

 

また、前々回記事にあるように、公明党は当時の公約である「日米安全保障条約の段階的撤廃」の実行意思が無いことを、矢野書記長訪米よりも前の段階でアメリカ側に伝えていました。

 

CGP officials have privately assured us they desire no immediate change in current arrangement, while in public, party currently advocates replacement of MST by "treaty of friendship and non-aggression," but only after obtaining U.S. agreement through negotiations.

(公明党当局は、公的には、アメリカとの交渉を通して同意を得た後でのみ日米安全保障条約を友好条約と不可侵条約に置き換えると現在主張する一方で、現行協定の即時変更を望んでいないと (アメリカ側に) 非公式に断言している)

  

上記記述より、矢野書記長訪米以前より政策変更が既定路線だったという仮説には、それなりに筋が通ると思います。問題は誰が発案者であったかです。

 

安全保障政策の変遷に関連する公電には、矢野書記長の名前が頻繁に記録されている一方で、竹入委員長の名前は余り出てきません。また、アメリカ側の判断として「竹入委員長の方向転換は矢野書記長に影響されたから」とのコメントが記録されています。

 

よって、竹入委員長は安全保障政策変更の発起人ではないと推測できます。矢野書記長か他の幹部です。 

 

政策変更に前向きだった幹部(例えば渡辺議員)が、政策変更に割と前向きな矢野書記長を訪米させて、竹入委員長を説得させた。という仮説が一つ考えられます。

 

しかしながら、公明党の一部議員が党最高幹部 (矢野書記長、竹入委員長) の頭越しに勝手に政策を変更できるとは考え辛く、この場合、渡辺議員には公明党の幹部と同等に公明党に干渉できる力、つまり池田会長の権威・支持が存在したと考えるのが妥当です。

 

渡辺議員、矢野書記長、竹入委員長と公明党上位指導層は分裂気味だった。池田会長とその側近(渡辺議員)は元々安全保障政策の転向に前向きだったが、党代表の竹入委員長をコントロールできないでいた。そこで竹入委員長に比べればコントロールしやすい矢野書記長を使って竹入委員長を説得させた。という仮説です。

 

しかしこの仮説を採用すると、の「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」という公明党の説明がかなり複雑な状況を示唆するようになります。

 

池田会長が、公明党中央執行委員会の議員の大半に影響力を行使出来なかった、あるいは行使しなかったことになります。更には、池田会長が二枚舌の調本人であり、それを公明党議員(非上位指導層)が拒否した(しかも選挙リスクから)ことになります。

 

公明党上位指導層の一部が結託して(例えば矢野書記長-渡辺ラインの形成の様な)勝手に決めたという仮説も成り立ちます。

 

池田会長と無関係に、分裂気味だった公明党上位指導層の一部が専制的に安全保障世策の変更を決め、訪米使節団をプロジェクトし、最終的には竹入委員長を説得した。という仮説です。

 

この場合はの「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」というのは明瞭に説明できます。一部議員の独断専行が否決されたと。

 

果たしてこの時期の池田会長が公明党に対して全くの無力、非干渉だったのか。他の外交公電から推察すると、個人的には疑問です。

 

 

の「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」というのが嘘である場合は、アメリカ大使館側への説明は、公明党の政策変更を猶予するための策略だったということになります。の竹入委員長のスピーチも様子見の為の一手であり、アメリカ大使館を納得させる為の演技に過ぎないことになります。

 

もっとも、全てが池田会長あるいは公明党指導層の策で、アメリカ側にラディカルな平和政策を実行する意思がないことを伝え安全保障政策の変更を示唆しつつ、訪米団を用いて公明党が交渉できる政党、建設的な団体であると認識させた。その上で国内政局を鑑み、政策変更を実行する機会を伺い、1978年の時点では党としての公約変更は回避。その言い訳として「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」という嘘をついた。というかなり穿った見方も出来ます。

 

この場合、池田会長あるいは公明党指導層は公明党支持者および米国政府を悪辣に裏切ったことになりますが、この仮説を裏付けるような証拠は特に見つけておりません。殆ど妄想の域です。

 

付け加えて言うならば、その様な嘘を突き通せるほどアメリカという国がちょろいとは思えません。外交公電においてもアメリカ側が公明党の説明に不信感を示しているような記載はありません。

 

 

以上、公明党の安全保障政策の変遷について幾つかの仮説を示しました。仮説を組み立てる中で実感したのは、不明瞭な意思決定機構、公明党の政策決定機構の不健全さです。

 

矢野書記長なのか、その他議員なのか、池田会長なのか。今後、他の公電や公文書が公開される過程で判明することもあると思いますが、現代段階で言えることは、公明党の意思決定機構は非常に不明瞭であったということです。

 

 

補足

 

 

池田会長を最大限肯定的に評価しながら仮説を組み立てれば以下の通り。

 

池田会長は公明党を自立させていた。安全保障政策に関しても信頼して一任していた。そんな中、矢野・竹入のコンビが平和主義捨て、選挙の為に裏切った。党中央執行委員会の反対で1978年の公約変更は成らなかったが、会長辞任の後、矢野・竹入主導で安全保障政策は変更されてしまった。

 

池田会長を最大限否定的に評価しながら仮説を組み立てれば以下の通り。

 

池田会長は公明党に強く干渉し事実上の独裁者だった。平和主義は全て見せかけで、日米安全保障条約の撤廃の様な政策は、はなから達成する気が無かった。矢野書記長を使って演技を打ち、アメリカに公明党の価値を認識させたが、党中央執行委員会の反対という言い訳を用いて公約変更の猶予を作った。

 

恐らく上記どちらでもないでしょう。

 

矢野氏は書籍の中で「池田会長(名誉会長)が直接公明党の政策に口を出してくるようなことは無かったが、池田会長の意を汲んだ学会幹部が指示をしてくることはあった。また、議員側が過剰に忖度することもあった」と述べています。

 

矢野氏の記述が本当の事なのか確かめる術はありませんが、これまで読んだ複数の公文書を考慮すると、1970年当時、池田会長-創価学会公明党は指揮系統が随分と複雑かつ曖昧だったのは事実だろうと私は考えています。

 

池田会長は、公明党に非干渉であったのではなく、影響力をダイレクトに行使しなかった。あるいは出来なかった。命じることは無かったが、意図を伝えることはあった。池田会長-創価学会公明党は一本の線でつながらず、各々に国際問題と国内政治情勢の間で、試行錯誤の連続だった。

 

恐らく客観的にはこのレベルかと思います。

 

当事者が口を割らない以上、真相は不明なままでしょうが、公文書にあからさまな嘘を記載するとは考え辛いので(いずれ公表される文章に嘘はつき辛い……これがアメリカの強さにつながる)、公明党の意図はともかく、公明党がアメリカ側にした説明はそのまま事実と判断して良いのではないでしょうか。

 

公的には(つまり支持者である創価学会員には)、在日米軍基地の撤廃や日米安全保障政策の段階的廃止を訴える一方で、非公式の場では(支持者である創価学会員の知らない場所では)、日米安全保障条約の維持が本音であるとアメリカ大使館側に伝えていたこと。

 

公明党の上位指導層と中央執行委員会のメンバーが、安全保障政策に関してコンセンサスを形成出来ていなかったこと。

 

池田会長の影響力の有無とは別次元の問題として、公明党の二枚舌、偽一枚岩の部分は記憶しておくべきでしょう。 

池田会長の一存に非ず(公明党安全保障政策の変遷-後編)

前回に続き公明党の安全保障政策の変化について、アメリカ外交公電を引用しながら考察します。今回は後編となります。

 

今回は、矢野書記長(当時)訪米後の公明党の動向に関する主要公電2報を軸に話を展開していきます。2報共、機密区分はConfidentialです。アメリカ公文書館のHPから誰でも閲覧できます。

 

 

①MODERATE PARTIES PLEDGE SUPPORT OF US-JAPAN RELATIONS

(穏和政党日米関係の支持を保証-1977年12月13~15日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=294207&dt=2532&dl=1629

 

②CGP MOVES TOWARD REALISM

(公明党現実主義へ動く-1978年1月20日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=16414&dt=2694&dl=2009

 

 

それぞれの公電に濃い内容がギッシリ詰まっていますが、今回は安全保障関連に関連する部分で私が興味深いと思った部分を抜粋して紹介します。

 

 

①の外交公電では、日本の穏和政党(公明党民社党)が、自民党過半数を失い、連立政権が樹立した場合においても、安全保障条約を含め、現行日本政府の対米方針を大きく変更しないことをアメリカ側に保証していたことが記録されています。

 

At luncheon hosted by CGP chairman Takeiri Dec. 13, he and SECGEN Yano stressed that even if LDP lost its majority and coalition government were formed, prospects were that security treaty would be tetained(恐らくretainedの誤植) intact.

(12月13日の竹入公明党委員長主催の昼食会において、竹入委員長と矢野書記長は、自民党過半数を失い連立政権が樹立した場合においても、安全保障条約には手をつけず保持することを強調した)

 

Takeiri said that CGP regards relationship with US as heart of Japanese foreign policy, and Yano noted he had made CGP's policy clear during his recent Washington visit.

(竹入委員長は、公明は米国との関係を日本における外交政策の中核であると考えていると話し、また矢野書記長は、公明党の政策を先日の訪米(ワシントンDC)中に明確なものにしたと言及した)

 

竹入委員長と矢野書記長は、自民党過半数を失い連立政権が樹立した時、つまり公明党の政策を実現するチャンスが近づいた時においても、安全保障条約には手をつけず保持することをアメリカ側に保証していた。完全なる二枚舌です

 

 

②の外交公電は年が明けて1978年、公明党第15回党大会における竹入委員長の発言にフォーカスして作成されたものです。

 

1978年の第15回党大会において、竹入委員長はそれまでの見解を変え、自衛隊日米安全保障条約を容認する見解を示しました。一方で、党基本方針の変更は行いませんでした(その理由も記載されています)。

 

まずは②の公電のSummary、まとめ部分からの抜粋です。

 

At clean government party (KOMEITO-CGP) convention Jan 11-13, chairman Takeiri attracted wide publicity by favoring acceptance of minimum self-defense forces necessary to insure territorial integrity and by suggesting caution in abrogating US-Japan mutual defense treaty.

(1月11-13日に開催された公明党党大会において、竹入委員長は、領土の保全を保証するために必要な最小限度の自衛隊の容認に賛成し、また日米安全保障条約の破棄に警戒を示し、幅広い注目を引き付けた)

  

次に、党基本方針の変更が行われなかった理由が記載されている部分を紹介します。

 

Explaining background to EMBOFF, CGP international bureau chief Kuroyanagi stated that top party leaders were all agreed on need to move in more realistic direction, but had failed to persuade majority of CGP central executive council.

 

(大使館側にことの背景を説明する時、公明党国際部事務局長の黒柳は「党の上位指導層は全員より現実路線へ動く必要があることに同意したが、党中央執行委員会の大部分の説得に失敗した」と述べた)

 

Opponents on council were mainly concerned about perceived election risks of new posture on self-defense forces and MST.

(中央執行委員会の反対者達は、自衛隊と日米安全保障に関する新しい立ち位置という選挙リスクを主に気に掛けた)

 

Having failed to achieve approval necessary to change party policy, formally, Kuroyanagi continued, leadership decided to put new policy positions into chairman's speech and focus media attention on them.

(「公式に、党の政策変更承認を得ることには失敗したが、上位指導者層は新しい政策方針を竹入委員長のスピーチに組み込み、スピーチに対するメディアの動向を注視することに決定した」と黒柳は続けて語った)

 

上記部分は公明党の安全保障政策の変更を考える上で非常に興味深い内容です。1977年前後、公明党の上位指導層と中央執行委員会のメンバーは、安全保障政策に関してコンセンサスを形成出来ていなかったと

 

 

②の公電内でアメリカ側は、竹入委員長の見解変更は矢野書記長の訪米に大きく影響を受けた結果であると判断しています。

 

CGP leadership's willingness to take new policy steps, despite substantial intra-party opposition, was doubtless influenced by successful visit of Yano mission to Washington (and CINCPAC) last October.

(公明党指導者の新しい政策方針への前進意欲(相当な党内の反対をよそにした)は、昨年10月に行われた矢野委員長のワシントンと太平洋軍最高司令官への訪問に恐らく影響されている)……10月でなく11月の訪米です。恐らく元文章のミスです。

 

また公明党側も他の公電において、公明党の渡一郎議員(矢野書記長に同伴して訪米した)が、矢野書記長の訪米が公明党の安全保障政策転換のターニングポイントになった旨をアメリカ側に通達しています。以下その部分を抜粋紹介します。

 

KOMEITO VIEWS ON SECURITY TREATY AND US-KOREA RELATIONS

(公明党の安全保障条約と米韓関係に関する見解-1978年2月3日作成)

https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=27733&dt=2694&dl=2009

 

In conversations this week with EMBOFFS, clean government party (Komeito) lower house member Ichiro Watanabe, who accompanied Komeito SECGEN Yano to US last fall, said that Komeito regarded visit not only as extraordinarily successful, but as turning point in its view of US-Japan security relationship.

(今週の大使館との対談の中で、公明党衆議院議員の渡一郎は、‐昨秋、矢野書記長に同行して訪米した議員だが-、「公明党は(矢野使節団の)訪米を大成功と捉えただけでなく、日米の安全保障関係に対する見解のターニングポイントであると評価した」と述べた)

 

公明党の安全保障政策変更の転換点が矢野書記長の訪米にあることは、公明党・アメリカの両サイドが認めています。

 

 

 

続いて、以前から当ブログにおいて言及してきた「公明党の安全保障政策変更に池田会長はどの程度関与したか、公明党の重要政策決定に池田会長は影響力を行使できたのか」を考察します。

 

前回紹介分を含め、外交公電から明らかになった公明党の安全保障政策の変遷に関する事実は以下5つです。

 

1.公明党の安全保障政策転換のキーマンは矢野書記長

2.アメリカ側は池田会長が矢野使節団の訪米を推進していると考えていた

3.矢野使節団に影響されて公明党指導層は政策方針変更に前向きになった

4.公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した

5.党の政策方針変更には失敗したが、竹入委員長のスピーチで言及した

 

2だけを考慮すると、公明党の二枚舌政策、安全保障政策の変更を主導した人物は池田会長ということになります。

 

しかしながら以前紹介したように、1975年の時点で池田会長は公明党をコントロールできていませんでした。

 

hasu-no-rakuin.hatenablog.com

 

竹入委員長は駄目でも矢野書記長はコントロール出来ていたという見方も出来ますが、その場合、「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」という事実をより複雑なものにします。

 

もし池田会長が公明党の政策決定にダイレクトに関わっていた場合、「公明党上位指導層は党中央執行委員会の説得に失敗した」という状況は、「党上位指導層(特に矢野書記長)は池田会長の影響下にあったが、その他党中央執行委員会の大多数の議員が池田会長の意向に反対した」ことを意味します。

 

これは公明党が根本的に池田会長の意向に反していたことを意味します。しかも、池田会長が安全保障政策の変更を願っていたにも関わらず、党中央執行委員会議員の多くが反対したことになります。

 

竹入委員長が池田会長と拗れていた状況下で、竹入委員長が池田会長の意向に沿う形で賛成した内容に、その他議員が池田会長の意向に反しNoを突き付けた……というストーリーは無理があります。

 

1975年以降に竹入委員長と池田会長が仲を取り戻した可能性、あるいは安全保障政策において見解の一致を見た可能性もあります。その場合は「党委員長と党創立者の意向にその他多数の議員が逆らった」ことになりますが、これは想定し辛い状況です*

 

以上考察すると「池田会長の一存で公明党の重要政策が決定されていたとは考え辛い」ことが判断できます**

 

公明党の安全保障政策の変更に対して、池田会長は最終的な決定力を示せていません。池田会長の意図が公明党に行き渡り、党を一枚岩にしていた訳でもありません

 

以前にも指摘しましたが「池田先生が作られた公明党、池田先生は公明党を支持している、池田先生と公明党の考えは一致している」という発想は間違いです

 

 

  

補足

名目上、創価学会公明党は独立した別の団体です。選挙活動のモチベーションが信仰基盤にある必要は特にありません。池田名誉会長に拘る必要もありません。誰もが好きなように、己のスタンスで政治に関わることが出来ます(それは信仰と矛盾しません)。また、選挙活動に関わらないというのも自由です。

 

紹介した公文書は様々興味深い内容です。より正確に内容知りたい方は、是非原文をお読みください。

 

 

*万が一、その様な状態であったとするならば、創価学会員の公明党支援は、二重の意味で破綻していたことを意味します。池田会長の平和主義が二枚舌であり、公明党議員の多くが池田会長の意向に反していたと。

  

**まるで影響力を行使していなかった(あるいは行使できなかった)とも考え辛いです。次の投稿では詳しい補足として少し穿った見方を提示したいと思います。